渉は名刺を見た。「炉端焼き・武蔵」と書いてあった。
「……本当ですか」
「嘘ついてどうする」
老人は缶コーヒーを飲み干して、しばらく沈黙した。それから、ぽつりと言った。
「俺もな、40年前、自分の息子を、見送ったんだ。19だった。仕事で悩んで、自分でな」
渉は息を呑んだ。
「あんとき、誰かが声をかけてくれてたら、と、何度も思った。今もな、思ってる」
老人は渉の顔をまっすぐ見た。
「兄ちゃん、今、お前の顔は、あのときのうちの息子の顔に、よく似てる」
渉は何も言えなかった。
「だから、声をかけた。それだけだ」
老人は立ち上がった。
「武蔵に行ってみな。ダメだったら、また戻ってきていい」
渉は名刺を握りしめた。手が少し震えていた。涙がじわりと滲んだ。ずっと出なかった涙が、知らない老人の何でもない一言で、にじみ始めていた。
「……ありがとうございます」
その言葉が、喉の奥から絞り出すようにして出てきた。
ありがとう、という言葉を、人に向かって、心の底から言ったのは、母が生きていた頃以来だった。
次回更新は9月23日(水)、22時の予定です。
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