渉は目を閉じた。母のことを思い出した。あの夜、渉を抱きしめた母の細い腕を。こんなに細くなっていたんだ、と思った、あの感触を。

(お母さん、俺もあのときのお母さんみたいになってきた)

涙が出た。声を出さずに泣いた。ネットカフェの個室の中で、膝を抱えて、静かに泣いた。隣のブースから笑い声が聞こえた。深夜のバラエティ番組の、誰かの笑い声だった。世界には、笑える誰かと、笑えない自分がいる。その距離が、ぞっとするほど遠かった。

(死ぬわけにはいかない)

なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。でもそう思った。お母さんみたいにはなりたくなかった。母が見つけられなかった「もうひと晩」を、自分は探し続けたかった。

翌朝、ネットカフェの共有スペースで缶コーヒーを飲んでいると、隣に老人が座った。

80近い老人だった。白髪で、少し背中が丸く、でも目だけが妙に若かった。渉と同じように、缶コーヒーを手に持っていた。

「兄ちゃん、顔色が悪いな」

老人は突然そう言った。渉は「そうですか」と答えた。

「ここ、長いのか」

「2週間くらいです」

老人は缶コーヒーをひとくち飲んで、渉を見た。品定めするような目ではなかった。ただ、じっと見ていた。古い友達を見るような、温度のある目だった。

「仕事、探してるのか」

「……はい」

「どんな仕事でもいいか」

「どんな仕事でもいいです」

老人はポケットから名刺を出して、渉に渡した。

「俺の知り合いが居酒屋をやってる。人手が足りないと言ってたから、よかったら紹介してやる。住み込みもできるぞ」