【前回の記事を読む】難病で、出産直後に亡くなった妻…その日記が見つかった。妻が死ぬ直前に言い残した「娘の名前」の由来が分かり、声を殺して泣いた。
5.
葵の泣き声が少し落ち着いてきた。眠りに落ちる直前の、あの遠くなっていく泣き声。渉はそっと立ち上がり、布団に寝かせた。
小さな寝顔を見ていると、千春の面影を重ねてしまう。目元が、そっくりだった。
渉は台所に行き、冷蔵庫から缶ビールを出した。流し台の前に立ち、ひとくち飲んだ。雨がベランダを叩いていた。
情けない、と思った。32歳の男が、1人で缶ビールを飲みながら、死んだ妻のことを考えて、ただ夜をやり過ごしている。
でも、それでよかった。今の渉には、それで十分だった。
*
翌朝、渉が葵の着替えをさせていると、葵が渉の顔をじっと見た。
1歳3か月の葵には、まだはっきりとした言葉はなかった。「まんま」「あー」「うー」、そういう声を出すだけだった。
でも葵は、渉の顔をじっと見て、小さな手を伸ばしてきた。
渉の頬に、ぺたっと手を当てた。
温かかった。
渉は動きを止めた。
葵の手が、渉の頬の上にあった。まっすぐな目で、渉の目を見ていた。
何も言わなかった。言葉にならない何かが、そこにあった。
渉はその手を、自分の手でそっと包んだ。葵の小さな手が、渉の指をぎゅっと握った。
その瞬間、渉の目から涙がこぼれた。
葵が渉の顔を見た。不思議そうな顔をした。それから、口をぱかっと開けて、笑った。あどけない笑顔だった。
渉は葵をぎゅっと抱きしめた。
葵はされるがままに、渉の肩に頭を預けた。
(千春)
心の中で呼んだ。
(葵が笑ったよ。俺に向かって、笑ってくれたよ)
雨上がりの朝日が、カーテン越しに差し込んできた。
渉は葵をそっと下ろして、台所に立った。ミルクを作りながら、窓の外を見た。青い空が広がっていた。
葵のそばに戻り、ミルクを飲ませた。葵は夢中で飲んだ。渉はその顔を見ながら、千春の日記の言葉を思い出した。
『あなたと出会えてよかった。それだけは、絶対に忘れないでほしい』
忘れない、と渉は思った。
一生、忘れない。
葵がミルクを飲み終えて、渉の顔を見た。満足そうな顔をしていた。
渉は葵を抱き上げて、窓の外を見せた。青い空と、雨上がりの街が広がっていた。
「葵、お外見てごらん」
葵は窓の外を見た。目をぱちぱちさせた。それから渉の顔を見て、また外を見た。
渉はそんな葵の横顔を見た。
幼くして母を失い、居場所も失った。虐げられ、18歳で家を出た。やっと自分が居てもいい場所を見つけかけた時、また人に裏切られ、底まで落ちた。でも拾ってくれる人がいて、千春に出会えた。また、居場所ができた。
そして今、千春はいなくなってしまったけれど、葵がいる。
俺がこの子の居場所になるんだ。
風が吹いた。窓の外で、木の葉が揺れた。
(千春、俺たち、大丈夫だよ)
渉はそっと、葵の頭を撫でた。
葵が渉を見上げて、また笑った。
これで良い。
この腕で、葵を抱きしめている。それだけで、十分だ。
本連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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