【前回の記事を読む】12歳の少年が溺れた理由──釣りの最中、なぜか自分の首に重りを下げて池底に潜っていった。次の瞬間「あっ」…
第一章 いずれあやめかかきつばた
三
それ以来八兵衛は、悪天と店に顔を出す日以外はここにくる。鯉よりは太平の顔を見たい、それが一番の理由だ。太平も近くにくれば必ず顔をだしてくれる。
もちろん、出会ったその日に伊兵が跡をつけ、次の日から素性を調べた。
「あ、への字か。釣りが仕事の呑気な侍や」嬉うれしそうに言ってすぐに、「何や、太平がまた何か失敗(しくじ)ったんか? 堪忍(かんにん)したって、釣りで頭がいっぱいやったんや。な、俺にめんじて堪忍したって」
町人が、太平のために手を合わせた。何人かに聞いても似たような話ばかり、馬鹿馬鹿しくなって半日でやめた。
裏も表もない。嘘も隠しもない。いや、本人は嘘も隠しもするのだが、残念ながらすぐにばれてしまう。
「本当に、そんな人間がおるんか?」
でも、それが太平だった。
「待て、やな」
ご隠居が太平の形を見てつぶやく。
桟橋の上で四つん這(ば)いとなった太平の右手が、片膝立ちで竿をかまえる石動の膝前に水平に出されている。あの日、ご隠居もこうして教わった。
「慌てないでくださいね。ええ、鯉の口は柔らかですから」
合わせが強いと口が切れてしまう。しっかりと呑のませて口裏に鈎を咬(か)ませる。それが理想だ。
「うむ」
水面に顔を出した浮子先が「ちょん」と沈んだ。石動が思わず反応しかけた時に、太平の手が出された。
まだ動くな、そう受け取った。その手の、肘から先がゆっくりと立って直角となる。まだ、だけど、もうそろそろ。そう受け取って体の力をわずかに抜いた。
「はい、そんな感じです」
ご隠居さんと違って飲み込みが早い。ご隠居さんはすぐに合わせてしまって、何度も鈎がすっぽ抜けてしまった。
「ええ、ご隠居さんは川に鍛えられたんだと思います」
岩魚(いわな)や天魚(あまご)相手では瞬時の合わせが勝負となる。だが、鯉や海の魚相手では向こう合わせで充分だ。(もちろん、カワハギのような例外もあるが)
この人はちゃんと魚を掛けてくれるだろう。だけど問題はその後だ。「掛ける」と「釣る」はまったく違う。釣り上げて、初めて釣ったとなるのだ。