ある日、女性向けのDVや性被害ホットラインの番号に、思いきって電話をかけてみた。
担当の女性スタッフが出た。渉は事情を、できるだけ簡潔に話した。
「あの、ストーカー被害で。相手が女性で、自分は男性で——」
電話の向こうで、相手が、ふっと笑った気がした。
「男性の被害者の方は、別の窓口で……」
「でも、ストーカー規制法は」
「いえ、わかります。でも、男性が被害者になるってケースは少ないので、優先順位が……」
渉は黙って受話器を置いた。
(誰も、聞いてくれない)
被害者になっても、男だから、と切り捨てられる。何かを失ったときに、誰かに「かわいそう」と言ってもらえる順番から、自分はいつも除かれている。
それでも、渉は店に通い続けた。辞めれば、また行く場所がなくなる。それだけが理由だった。
出勤前に、ビルの前を一度通り過ぎて、誰も立っていないことを確かめてから中に入る。その手順が、いつのまにか毎日の習慣になっていた。そんな日が、ひと月、ふた月と続いた。
追い詰められていた。部屋にいても落ち着かなかった。窓のカーテンを開ける勇気がなかった。スマートフォンの通知音が鳴るたびに、心臓が縮んだ。夜中に物音がするたびに目が覚め、明け方の4時、布団の中で起きたまま天井を見ていた。
食欲がなくなった。
3日続けて、ヨーグルト1個だけしか口に入れられない日もあった。鏡の中の自分の顔は、絵里子の家にいた頃に戻っていた。頬がこけていた。
ある夜、渉は布団の中で天井を見つめながら思った。
(俺はずっと、どこにも居場所がない)
子供の頃は、あの家から逃げ出したかった。18歳でやっと出られたと思ったのに、今度はまた追い詰められている。
(お母さんは、こういうときに、薬を飲んだのか)
ぞっとした。同時に、少しだけ、わかってしまった気がした。
ダメだ、と思った。
(俺は、母と同じ目をしてはいけない)
渉はその夜、店を辞める決断をした。
翌朝、オーナーに電話した。「申し訳ないですが、退職させてください」。オーナーは少し沈黙してから「わかった、お疲れ様」と言った。引き止めはしなかった。
Lunaでの6年間が終わった。