渉は廊下に1人、残された。何もしていない、と言いたかった。でも、誰も信じてくれないことは、もうわかっていた。子供の頃から、ずっとそうだった。渉が「何もしていない」と言っても、絵里子は信じなかった。学校の先生も「そう」で済ませた。今も、同じだった。何もしていない人間の言葉は、どうして、こんなに軽いんだろう。

渉は震える指で、雑巾でペンキをこすった。半分しか落ちなかった。赤い文字の影が、ドアに、うっすら残った。何度こすっても、消えなかった。

夜、布団に入っても眠れなかった。玄関のドアの向こうに、誰かが立っている気がした。寝返りを打つたびに、廊下の足音が気になった。エアコンの送風口が動く音にも、心臓が跳ねた。

夜中の3時、トイレに行きたくて起きた。便座に座っているとき、外で何かが落ちる音がした。

渉は便座の上で、息を止めた。

(いるのか?)

ドアを開けて確かめる勇気は、なかった。トイレの中で、両手で頭を抱えて、しばらく動けなかった。寒くもないのに、歯がガチガチと鳴った。

(俺は、また、どこにもいられない)

膝を抱えた。

子供の頃からずっとそうだった。母が生きていた家にも、絵里子の家にも、そして、自分で借りたこのアパートにも、安心できる夜は、最後まで来なかった。どこへ行っても、渉を、まるごと受け入れてくれる場所は、なかった。

次回更新は9月18日(金)、22時の予定です。

 

👉『わたる』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】2人も産んだ女の体。本当は見せたくないのに…仰向けになったところで、脇を舐められ、「いや?」と聞かれ…

【注目記事】彼氏以外の男性に唇を奪われても私は抵抗しなかった。それは彼氏への不信感が強まっていたからかもしれない

 

ゴールドライフオンライン(GLO)は、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン(GLO)編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp