【前回の記事を読む】昭和16年12月8日、ラジオが真珠湾奇襲を告げた…開戦の1カ月前、外国人は次々と去り、横須賀軍港でも異変があった。

三 開戦前夜

この山根幸一という男子社員は関東北部出身の二十五歳で、中学卒業後は実家の鍛冶屋(かじや)を継いでいたが、新兵として召集されたあとは、中国の上海付近に配属されたとのことだった。

軍隊では前線に出るよりも、後方で軍需資材や兵糧(ひょうろう)の調達を主な任務としていたとのことで、それなりの商才があった。

仕事で覚えたのか、中国語もかなり達者に喋っていた。家業の鍛冶職人の道は弟に譲り、人づてに横浜のこの貿易会社に就職したとのことだった。

「私だって心配だよ。うちの会社は小さいながらも貿易会社だから、外国航路が封鎖されれば船の運航はできなくなるし、貨物船が軍隊に徴用(ちょうよう)でもされれば商売は完全にあがったりだ。

七月からアメリカやイギリスの船は入港しなくなっている。ほとんどが中国大陸や台湾からの船荷になった。せめて海軍や陸軍さんの仕事でも回してもらわないと食っていけなくなるな。戦争になれば絶対勝って、早く終わらせてもらわにゃ」

上司は困ったように話していた。

奈津には開戦が自分たちの生活にどのように影響するのかは予測できなかった。ただ、米国や欧州相手の貿易も、豪州との取引も難しくなることは分かった。

仕事からの帰り道、年も迫った関内の町では、開戦と日本軍の大勝利を祝う歓声が挙がっていた。街通りでは日の丸の旗を振る人々の提灯行列が数カ所で行われ、まるでお祭り行列の様相だった。街には勝利間違いなしの空気が溢れていた。

思い返せば、開戦の一カ月前に横浜海軍航空隊が南方へ展開していったのも、開戦の準備だったように思えた。