【前回の記事を読む】田中角栄はお金を渡す時、必ずピン札で「1・3・5枚」から選んだ。しかも祝儀袋は“小さい方がいい”と言う…その訳は
4.そして進学教室の講師になった。
その頃、生徒数は350人を超えていたが、フォローが次第に疎かになり、毎月辞める生徒が出ていることに気づいた。しかし、もはや、その対策を打ち出す元気もなくなり、酒量は更に増え、午前中の鬱気は授業が始まる頃まで消えないようになっていた。
そんな折、塾長が、また生徒数を増やしてくれと言って、生徒数百人くらいの東西線の駅近くの別な教室への異動を命じた。しかし、私はもはや生徒カルテを読む気力はなく、相変わらずのひどい二日酔いから始まる鬱気と授業直前まで戦い、授業が終わると十時ぴたりに帰った。
そこで出来た暇な時間を使って、また長編推理小説を書き始めた。一万部程度の雑誌の新人賞に二千人近くの人が応募することも珍しくないが、私がそうであったように、下手な物語でも、段々乗ってくると、確かに精神が安定してくるので、多くの現実に悩みを抱えている人が、同じ動機で書き始めるのだろうか。
とまれ、今回も、何とか五百枚書いて応募したら、一次は何とか通ったが、やはり二次で没。今考えてみると、二回目で一次通過なら別に悪くなく、そのまま書き続ければ良かったのに、私は別な色気が出る。
そろそろバブルが弾け、少子化傾向がはっきりし、塾業界の受難時代が始まろうとしていたのだが、まだその頃、年収が億を超える予備校の「スーパー講師」が、週刊誌やテレビで取り上げられていた。
私も中学生の英語に飽き足らなくなり、高校英語の参考書は何冊か熟読していたので、予備校で自分の力を試してみたくなった。まさか収入億越えの「スーパー講師」になれるとは思っていなかったが、実際に同僚で河合塾へ行って年収が倍増したという男がいたので、私も二匹目のどじょうを狙ったというわけだ。
そこで、密かに、何校か予備校に応募し、W予備校に採用になって、とうとう進学教室を辞めた。