採用になったのはいいが、予備校は小中学生の塾より先に少子化の波を被り始めていて、最初、大教室へ行って驚いたのだが、生徒が十人くらいしかいない。そのクラスだけかと思ったが、次のクラスも、その次も、同じであった。そして、他の先生の授業を覗いてみると、五十人いればいい方だった。
驚いたのはそれだけでなく、最初、週に一コマ一時間半の授業が五コマくらいしか貰えず、講師代も一コマ五千円も行かなかった。最初の給与の細長いレシートを貰ったが、十万と一寸で、背筋が寒くなった。
知り合いになった物理の講師のH氏は、一コマ当たりの単価を入れると凡その年収を算出できる、「Hの公式」を作り上げていたが、彼によると、この予備校で一千万を越える講師は五人くらいで、「スーパー講師」なんかマスコミのでっち上げた神話だと断言していた。
しかし、そうした現状を打破すべく、事務局は翌年から、早めに生徒を確保しようと、中学部を新設することに決め、経験ある私を、千葉県にある校舎の中学部長に抜擢した。
役職手当が十数万出たが、夏期講習などでコマ数が増えても、総額で精々三十万、程度だった。進学教室の最後の年は、年収600万は超えていたから、つまり気が付いてみたら小学生がいないだけで、殆ど進学教室と同じ仕事をして、給与はほぼ半分になっただけだった。
結局、二年ほど予備校にいたのだが、ある日中学部統括部長に呼び出され、生徒数も伸びないし、私に対する生徒のアンケートの結果が芳しくないので辞めるよう宣告された。確かに最初の年は、年度の途中から募集したこともあり三人しか生徒が来なかったが、翌年は十数人、そしてその年は最初から二十人以上集まっていた。
そして、いざ私が辞めると言うと、講師の同僚も事務長も生徒も皆びっくりして、何故辞めるのかと訊いてきた。同じく進学教室の塾長出身だったその統括部長にはめられたのかもしれないと思ったが、二年やって、そうした上司の下で中学部を発展させることに希望が持てなかったので、私はアッサリ辞めることにした。
それで塾を始めることになったのだが、何となく流されてやり始めた、というのが正直な気持ちだった。もう少しで四十になる私は、その後どうするのか、と訊かれ、自分で塾を始めるしかない、と何人かに言ったことは確かだった。
しかし、それを忘れなかった二人の中学一年女子が、どうしてもその塾に入りたいと言い出すとは思わなかった。すぐには出来ないし、私の後について予備校を止めるのだけはダメだ、と釘を刺したが、取り敢えず浦安のアパートでもいいから教えてくれという。
丁度浦安のアパートの契約が切れるので、すぐには勤めも見つからないから、家庭教師くらいなら仕方ないか、といっそ二人の家の近くに引っ越そうか、と少し思った。
次回更新は9月7日(月)、11時の予定です。
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