その日一日、吟は元気がなかった。
夕方、夫が帰ってくると、目をきらきらさせて飛び上がった。
吟はうれしいときは、ぴょんぴょん跳ねた。リードに繋がれているので、その場でゴムまりのようにピョーンピョーンと上下動を繰り返す。繰り返しながら、ワンワン吠えた。
「僕はここだよ。おかえりなさい。どうして連れて行ってくれなかったの?」 置いてきぼりを食ったのが、よほど悔しかったのだろう。
翌日からいつもより少し早めに吟はやってきて、夫がまだいることを確かめると、部屋の入口にどさりと横になって寝た。
部屋を出る際には、吟を跨がなくては出て行かれない。
そうなればいくら眠っていても気がつくから、置き去りにされる心配はないと考えたようだ。
逃亡犯を見張る役か、身辺警護のガードマンか。人間の気配がすると、すっと立ち上がって、どこへ行くの?と問いただすように人を見上げる。そんな仕草に、ラブラドール・レトリーバーがいかに人間中心の生活をしているかがうかがえる。
しかし吟は若い頃よく逃亡した。
こちらがうっかりリードを外したまま吟とボール遊びに興じていると、通りがかりの猫を追いかけて吟は生垣を潜って走って行ってしまった。人間は逃げられる都度必死で追いかける。が、さすがに犬だけあってとても追いつけるものではない。
あるとき一計を案じて、猫の首ならぬ犬の首に鈴を付けたことがあった。クリスマスも間近な頃でジングルベルのようだと思ったが、本人もまんざらではない様子だった。が、一週間もしないうちに鈴はどこかに消えた。
一度自由の身になると、まるで「ここまでおいで」とでもいうように、振り向き振り向き田んぼ道を走っていく。「帰ってこーい」と追いかける人間。その距離が縮まらないように周到に考えて、吟はすたすた駆けていく。
追いかけるほうにすれば、リードを握っていなかったのが悪いのだから仕方がないとはいえ、五十メートルも走れば息切れがしてくる。追いつくだけの体力もない。
吟は、必死で追いかけてくる人間の姿を面白がっている。
そこで、人間は別の策略を考える。いったん戻って車であとを追いかけることにした。 車が目に入ると、今度は吟が慌ててUターンして戻ってきた。どこかへ出かけるんだ、と思ったに違いない。