自分のおろかさを自覚することはなかなかできることではない。
なぜならば、
わたしたちは少しでも自分の姿をよく見せようするからだ。
時には自己弁護をする。
自分を正当化しようとする。
こうして、自分自身の本当の姿からいつも目を背けている。
被教育者のように、自分のおろかさを認めた人から学ぶことは多い。
その学びの一つは、自分には三毒五悪の煩悩が備わっていることなのだ。
生物としての生命を生きている以上、なくすことのできない煩悩に塗れた業熟体的存在であることをほんとうに自覚できるかどうかではないだろうか。
しかし、たとえそれが自覚できたとしても、必ずしもおろかになったわけではない。
あくまでも賢者の知恵の範囲内だ。
自覚できただけでは、どこまでいっても愚者なのである。
いつまで経っても自分がおろかであるとは思えない。
むしろ、おろかさを隠して生きているのではないだろうか。
ただ、もしかしたら自分はおろかなのかもしれない、と思えるところまではいけるかもしれないが、それは如来のみが知ると、言わざるを得ない。
この世では、多くの人々は能力の程度に差はあるものの、思慮分別ある者として社会生活を営んでいる。
しぶとく生き抜くためには、
世法に従い、
倫理道徳を遵守し、
博識で、物事や人を判別する能力を発揮し、
さまざまな事象を科学的、合理的、論理的に判断して行動できる能力、
が求められる。