【前回の記事を読む】こころの状態をコントロールするのは難しい――山頭火は『或る時は菩薩、或る時は鬼畜、それが畢竟人間だ』といって…
第一章 自己の真実性
第一節 自己とは何か
第三項 自己不確実性
自己を生み出す脳そのものが不完全であり、不可得であることから、自己は不確実な幻想のようなものではないだろうか。
だからといって、幻想の奴隷になってはならない。その幻想から自己の不確実性を俯瞰するこころを養うことが肝要だ。
人間の脳は、あいまいで、いい加減で間違いやすく、おろかで、不完全である反面、知的能力、高次認知能力や創造性は豊かではあるが、不確実なものなのだ。
「心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す」『和英対照仏教聖典』(1)
鈴木大拙の『日本の最終講義』(2)によれば、
「禅で浄化された『自己』とは、一般に『自己』といわれているものの『不可得性』のことで、この不可得性こそ無や空そのものなのである。
『自己』は不可得であるというとき、その意味は伝統的に『自己』と呼ばれているものに当たる実体がない」
ということである。
自己とはこころやからだと同じように、自分の思い通りにはならない。
智慧(ちえ)のないこころが、我であるとか、わがものである、とかと言う。
自分の思いとは、我が身に引き起こるさまざまな出来事や物事を、よいとか悪いとか、ああでもない、こうでもない、と考えることで描き出される電影のように不確実だ。
実体はなく、移り変わり、現れては消え、消えては現れる、陽炎(かげろう)のようなものでもある。
こころに思い描く心象風景はすべて夢幻泡影(むげんほうよう)。幻想の奴隷になってはならない。
喜びも悲しみもみなこころが生み出した不確実な幻想。
その幻想から自己の不確実性を俯瞰するこころを養うことが肝要だ。
「智慧(ちえ)ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない」『和英対照仏教聖典』(1)