【前回記事を読む】「みんな同じ」が差別を生む? 憲法14条が突きつける“平等”の落とし穴とは

第2章 差別されない権利を根本規範に置いた憲法再読

憲法の捉え直し

■十四条前段(平等権)、十四条後段(差別されない権利)

第1章で確認したように、自由権とは、ある国家行為を「しない」ことを要求する権利(不作為請求権)で、請求権とは、ある国家行為を「する」ことを要求する権利(作為請求権)のこと。国家が自由権を扱う時は、平等原則を適用することでよい。国家に対し、余計なことはするな自由にやらせろという権利は、国民に等しくある。

一方、国家が請求権を扱う時には、国民一人ひとりは等しくない、つまり、性別、年齢、障害の有無、所得水準、単身世帯か否か等国民一人ひとりは異なっていること、国民一人ひとりが国家に請求することは異なることを踏まえて、国家行為を行わなくてはならない。

そこでは、国民に等しく国家行為を行うことは例外で、国民それぞれの状況に応じて異なる国家行為を行うのが原則。そうなると、請求権の扱いに平等原則を適用するのはそもそも無理があることになる。請求権(及び国民の義務)に求められるのは平等原則ではなく、国民一人ひとりが異なることに配慮しかつ差別をしないとする公平原則ではないか。

従来、平等原則の中の「異なる扱いをする場合には合理的な理由が必要」という部分で、国民一人ひとりが異なることへの配慮を、実質的にしてきていると考える。しかし、平等原則は、全ての国民を等しく扱うことが基点になっているので、みんな一緒、というバイアス(一種の同調圧力)をどうしても潜在させてしまう。

だが、国家行為には、平等原則だけでなく、みんな違う、ことを基点にして国民一人ひとりの置かれた状況に配慮する公平原則もまた求められている。突き詰めれば、平等原則と公平原則はベクトルの向きと起点が違っているだけで、同じことを二つの面から言っているに過ぎないとも言える。

請求権にも、国民を等しく扱わないといけない権利は多々ある(例えば、国家賠償請求権や裁判を受ける権利)。だが、重要なのは、国民はそれぞれみんな違うことを基点にして、かつ、違うことで誰かを劣位に置いて差別することなしに、国家行為はしないといけない、というスタンスを取ることで、同調圧力による差別の防止に繋がること。

余談だが、歴史的に見ると、自由と平等がまず主張されて、その後社会権(請求権)が整備されるという流れの中で、請求権には、自由権とは異なり平等よりも公平の適用が妥当なことが、明確に意識されなかったことが、憲法に平等原則はあるが、公平原則が明文化されていない背景なのかもしれない。