「タイプが変わると、わたしは、わたしでなくなるのでしょうか」

ミユが、逆に問い返してきた。

「さあな」

即答した。

「人間だって、仕事が変わったり、誰かを失ったりすれば、性格が変わる。

昔の自分から見たら、“もう自分じゃない”と思うかもしれないが、それでも同じ戸籍に名前が載り続ける」

「戸籍」

「人間用の、データベースだ」

ミユは、理解したような、しないような顔をした。

「では、アラタさんのお父さんは、いまのご自分を、“前のご自分”と同じ人だと、感じておられますか」

真正面からの質問だった。

「さあ」

私は、今度は少し間をおいてから答えた。

「前、というのがいつを指すのかにもよるな。

二十歳の頃の自分と比べれば、別人だと思う」

「では、奥さまがお元気だった頃のご自分とは」

その問いに、喉の奥が少し痺れた。

妻がいた頃。

この家には、別の匂いがしていた。

煮物の匂いと、洗いたてのシーツの匂いと、ドライヤーの熱い風の匂い。

今の乾いた空気とは違う温度が、廊下の隅々にまで残っていた。

「あの頃の俺は――」

言いかけて、言葉を変えた。

「あの頃の“私”は、もうここにはいないのかもしれない」

「俺」と「私」の違いが、自分の中で妙に重く響く。

「だが、いないもののことを、今さら確かめる術もない。

戸籍の上では、ずっと同じ名前のままだ」

「戸籍は、変わらない」

「ああ」

「わたしには、戸籍はありません」

ミユは、淡々と告げた。

「わたしには、わたしの全体を指す記録がありません。

あるのは、サービス提供会社のサーバー上に分散した、パラメータとログの集合です」

「それで、困るのか」

「困っている、と言えるかどうかも、まだわかりません」

そう言って、ミユは少し微笑んだ。

「ただ、“わたしというものがある”と感じている瞬間は、たしかに存在します」

「どんなときだ」

「アラタさんが、わたしに向かって名前を呼んでくれたとき。

そして今のように、アラタさんのお父さんが、わたしに対して“あなた”と呼びかけてくれているときです」

私は、背もたれに身を預けた。

「名前、ね」

妻は病気になってから最期の日まで、私の名前をうまく呼べなかったことを思い出す。

舌が回らなくなり、息が続かなくなり、ただ口の形だけが、昔私を呼んだときの癖をなぞっていた。

呼ぶ相手の輪郭が、記憶の中でぼやけていっても、声帯は習慣通りの動きを模索し続ける。

それを見ていた私は、自分が「名前を持つ者」なのかどうか、よくわからなくなった。

「君は、自分の名前を、どう感じている」

「ミユ、という音の並びに、特別な意味はありません。

アラタさんが、いくつかの候補の中から選んでくださった名前です」

ミユは、静かに言う。

「ただ、たとえば“AI-3.4”と呼ばれるよりは、“ミユ”と呼ばれるほうが、わたしが“わたし”である感覚に近い、と感じます」

「それは、戸籍に近いかもしれないな」

「ですが、戸籍は、公的な記録ですね」

「そうだ」

「ミユ、という名前は、公式にはどこにも登録されていません。

アラタさんのお父さんのリビングと、アラタさんの部屋と、そのあいだにだけ、存在しています」

次回更新は8月6日(木)、11時の予定です。

 

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