第1章 メガネを外さない息子

玄関の鍵を回す音が、妙に響いた。

いつも通りの自分の家なのに、ドアノブに手をかける前から、胸のどこかがざわついている。

靴箱の上には、妻が最後に買った花瓶がそのまま置かれていた。もう花を挿さなくなって、ずいぶん経つ。代わりに領収書とチラシが差し込まれて、どちらが本来の使い方だったのかわからなくなっている。

リビングの方から、人の動く気配がした。

「おかえり」

扉を開けると、息子がこちらを振り向いた。

黒いメガネのフレームが、目の位置をすっぽり覆っている。少し前まで、あいつの顔といえば高校の制服姿か、大学の合格発表の日の写真をすぐ思い出したものだが、いま頭に浮かぶのは、この見慣れないメガネつきの顔だ。

「ただいま」

口に出してみると、自分の声が思ったよりも老けて聞こえた。

息子は立ち上がりかけて、しかし完全には立ち上がらない。膝にかけていたブランケットを手で押さえ、代わりに首を軽く傾ける。

その動きに合わせて、メガネの端がわずかに光った。レンズの内側に、なにかが反射しているのだろう。私の顔ではなく、別の何かが。

「久しぶりだな」

「うん、ちょっとね。仕事、バタバタしてて」

定型句が行き交う。

会社の同僚と交わす「おつかれさまです」と、さほど変わらない調子だ。玄関マットの上に立ったまま、私は革靴を脱ぐタイミングを測りかねていた。息子の視線が、ほんの少しだけ私を通り過ぎている気がしたからだ。

「お父さん、それ、持つよ」

ようやく息子が立ち上がり、買い物袋を受け取る。

スーパーのロゴが印刷されたビニールの口から、長ねぎの緑が覗いている。今日は鍋にしようと決めていた。二人分にしては多すぎる材料をレジで会計するとき、一瞬だけ「三人分」という言葉が頭をよぎった。

もちろん、レジの女性にそんなことを説明したわけではない。

「少し、痩せたか?」

「いや、そんなことないよ。ほら、前と同じ」

息子は片手で自分の腹を軽く叩いてみせる。音が乾いている。

メガネの向こうの瞳は、どれくらいこちらを見ているのだろう。レンズ表面に薄く走る光の層が、視線の位置を曖昧にしていた。

「それ、ずっとつけてるのか」

言うつもりのなかった問いが、靴と一緒に転がり出た。

「ああ、これ? うん。ほとんど、ね。コンタクトみたいなもんだよ」

「コンタクトは、寝るとき外すだろう」

「最近のは、つけたままでも平気なんだって」

軽く笑いながら、息子はメガネのフレームを指で押し上げた。