その指先の動きは、昔と同じだ。授業中に黒板が見にくいとき、まだ普通の眼鏡をかけていた頃にも、同じような仕草をしていた。違うのは、その一挙手一投足を、見えない誰かが記録しているのかもしれないということだ。
「まぁ、とりあえず座ろう。鍋、すぐに準備するから」
「手伝うよ」
息子はそう言ってキッチンに入ってくるが、包丁を握るわけでもなく、まな板の横でウロウロしている。
慣れない台所での男の立ち位置は、いつの時代も似たようなものかもしれない。
「野菜洗ってくれるか」
「了解」
返事に、ほんの少しだけ仕事口調が混じる。『了解』という言い方は、もう珍しくないのだろうが、私はまだ少し身構える。
シンクの水が出る音と同時に、息子はわずかに首を傾けた。耳の奥で誰かの声を聞いているようにも見える。水の音に紛れて、その誰かの声がこちらには届かない。
「どうだ、仕事は」
一応、父親らしい質問を投げてみる。
「うん、まぁ。忙しいけど、嫌いじゃないかな。プロジェクト変わってさ、新しいチームになったんだよ」
「チーム」
「うん、人と、それから……」
言葉がそこで一瞬止まる。
メガネの奥の瞳が、宙の一点に焦点を合わせたように固まる。数秒後、息子は首を小さく振った。
「まぁ、いろいろある」
そう言ってごまかすように笑う。
「人と、それから」の後に続くものを、私はなぜか察してしまった。そこに「システム」や「AI」や「サポート」といった言葉が入ることは容易に想像できる。だが、それを自分の口から先に言ってしまうのは、何か負けを認めるようで嫌だった。
鍋が煮立ちはじめる頃には、会話のほとんどが野菜の値段と、最近の電気代についてに変わっていた。
目に見えるものだけを話題にしていれば、言葉はそれなりになめらかに転がっていく。白菜が高い、豆腐は安い、ガスの基本料金が上がった──そういった話なら、どちらも傷つかない。
「いただきます」
二人で手を合わせる。
息子の指先が、メガネのフレームにわずかに触れた。祈りと装置の境界線が、ほんの数ミリ単位で重なっている。
「どうだ、味は」
「うん、おいしいよ。野菜、多いね」
「お前の母さんが、いつも言ってただろう。肉ばかりじゃ駄目だって」