【前回の記事を読む】優しい眼差しに一目で惹かれた静――だが義経は、家族を奪われた壮絶な過去を秘めていた
第一章
元暦元年 (一一八四年)
旧暦八月六日 二十六歳
紫宸殿
暦は秋というのに、暑い日だった。空は晴れ渡り、蝉時雨が御所の奥から聞こえてきた。
六条室町の屋敷から輿に乗って建礼門に参内した九郎は、束帯姿であった。
濃黒(こいくろ)の冠、縹(はなだ)色の袍(ほう)の下に短い裾(きょ)を引き、靴(か)の沓(くつ)、背には平胡籙(ひらやなぐい)に差した箭(や)を負い、手には蒔絵弓、腰には太刀という美々(びび)しい武家の束帯装束であった。引き緊(し)まった両頰に影差す黒い緌(おいかけ)の飾り物が、武者の荒ぶるの美を一点に結実して瀟洒(しょうしゃ)だった。
建礼門で唱計(しょうけい)を受けてから承明門を経て内裏南庭に導かれると、広大な空間の奥に夢の様に美しい紫宸殿の姿が目に入った。この御殿をこの目に出来る日があろうとは、今この時ですら信じられぬ思いで、九郎はただ目を見張った。白い玉砂利を踏んで、他の任官者、先導の式部、兵部と共に紫宸殿の階の近くまで伺候し、列立した。
(南殿の御簾(みす)の内には、帝がおわす)
そう九郎は思った。
式部、兵部が奏任除目を読み上げ始めた。
名を唱された任人は一人一人前に出て、称唯(いしょう)・拝舞(はいぶ)を行い、退出してゆく。九郎の額が、そして、袍の下に着た単衣が、吹き出す汗に濡れてゆく。
そして、遂に名を呼ばれた九郎は教えられた通りに前へ進み出、称唯・拝舞を行った。与えられた任職は、左衛門少尉兼検非違使である。生まれて初めての官位であった。
頭の中に蝉時雨が、目眩のように駆け巡る。生まれ落ちてから今この刹那までの出来事が、目くるめくように頭の中を走り抜けていった。まだ二十余の歳でありながらもそれは、余りにも長く重い身過ぎであった。
(十年前、我は物乞いに等しかった)
突然、遥か上から舎人の、歌うように節をつけた口調の声が掛かった。
「左衛門少尉検非違使源九郎義経、院よりの直々のお言葉があらしゃりまする、階の下まで伺候仕れよ」
その先例のない事態に、その場の者は皆暫し呆然とした後、急いで地に這いつくばった。
後日、院御所に参上して慶申するのが儀典なのだが、いかなる事か院がこの場におわする事にも、皆うろたえている。
九郎は当惑しながらも、謹んで階下まで進み、平伏した。頭上で御簾がするすると上がる音が聞こえ、次いで足音が近寄ってくるようだった。