「九郎義経」
渋みのある、嗄れ声が聞こえた。緊張で言葉も出ない九郎に対し、法皇は重ねて宣(のたも)うた。
「構わぬ、面を上げよ」
作法通り依然として平伏したままの九郎に、近習の声が再再度促し、初めて恐る恐る顔を上げると、高い階の最上から中途まで段を下り給い、後白河法皇そのお方が跪いておられた。しかも、柔和に笑っておられたのだ。
「驚かしたな、何しろ其方の喜ぶ顔を一刻も早う見とうてな」
院はそう宣うと、檜扇(ひおうぎ)を口元に当ててホホホと声に出して打ち笑われた。
「朕はこの日を待ちに待っておったのじゃ。九郎、其方(そち)に報いを遣わす日をの。ようやった、ようも天朝を助け奉った。重畳(ちょうじょう)、重畳。存分に褒めて遣わすぞや。されば向後も引き続き天朝が為に、励むように」
畏まって頭を下げたままの九郎に、
「直(ただ)の答(いら)えを許す」
と鷹揚な院のお言葉が聞こえた。又近習の促しを受け、
「勿体なきお言葉、真に痛み入り候。九郎義経、これからも身命を賭してお役目を全う仕る所存にて候」
九郎は再び平伏したまま、使い慣れない言葉で舌を噛みそうになりながらそう云うのが精一杯であった。
「近う見れば、思いのほかまだ若い事よ。ふむ、愛しや」
法皇は、九郎の頭を撫でてみせるばかりにそう宣うと、軽い笑い声を響かせて、遠ざかっていった。
平伏したままの九郎の鼻筋から、涙とも汗ともつかないものが、顔に施した白粉を溶かし、白く濁って流れて落ちた。鼻先から流れる汁をそのままに、化粧の剥げた顔を下げたまま、九郎はなお暫しそのままで居た。
蝉時雨が、その姿を包み込んでいた。
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