【前回の記事を読む】わが「家」の会社が兄嫁の実家に乗っ取られた。そのせいで一族は離散し、自己証明の拠り所を失った。
第一部
第二章 同行二人
黄禍論と俘虜収容所
霊山寺から極楽寺(ごくらくじ)へ向かう。
この途次で交差する四十一号線を北へ折れると、旧板東俘虜収容所(現鳴門市ドイツ館)があり、ここでベートーヴェンの『交響楽第九番』が第一次大戦時のドイツ人捕虜たちによって、一九一八年六月一日、本邦初演された。
黄禍論を説いたウィルヘルム二世(一八五九~一九四一)はこの時点でまだドイツ皇帝だったが、君主制を維持しようとしたマックス・フォン・バーデン宰相が英国派遣軍のウィルソンと休戦和平交渉中にドイツ十一月革命が勃発し、皇帝はオランダへ亡命した。
かつて第一次第二次モロッコ事件で三国協商によるドイツ包囲網が結成され、デイリー・テレグラフ事件など物議を醸すことの多かった皇帝だが、歴史的にみてパックス・ブリタニカの帝国主義世界に対して名誉ある地位を得たかった、そのために西洋と東洋とを対峙させて、西洋優位の世界秩序の存続を期す西欧の盟主であることを自分の歴史的役割と考えていたのではないか。
疾風怒濤期の代表的詩人シラーの詩『歓喜に寄す』に取材したこの作品が東洋のわが国で、しかも捕虜となった自国民によって演奏されたと知ったら、皇帝はどんな思いを抱いただろうか。
三国干渉でわが国に遼東半島を返還せしめ、わが国がロシア帝室の軍隊と戦ったときは自らの黄禍論をロシアに知らしめたけれども、第一次大戦では協商側に敗れ、その捕虜はここ徳島などわが国の各地に収容されて武士道的に厚遇された。
西欧の盟主たらんとする彼の歴史的構想は利用され、正直な西欧人としての彼の黄禍論は人種的偏見とされ、そう主張した米国のウィルソン大統領は国際連盟の設立を唱えたが、国民の反対で加盟せず、黄禍論は生きつづけた。
二十世紀はじめころのわが国の捕虜収容所では、日露戦争時のロシアや第一次大戦時のドイツの捕虜に対して赤十字条約(ジュネーヴ条約)を遵守した対応をした。
ここ板東ばかりでなく、松山の来迎寺(らいごうじ)には日露戦争で捕虜となって客死したロシア人たちの共同墓地があり、彼らと地元住民との心温まる交流が記録されている。
こうした赤十字条約に関わる記録は、人類や人間というコトバには黄禍も白禍も入る余地がなく、人種や民族によって互いに禍となることがないためには、それぞれの歴史を尊重すること、つまり心でつながることが大切だということを示している。