【前回の記事を読む】注文主に買い取られなかった名作《モナ・リザ》。この女性は誰なのか? 最新のレーザー光線・顔料の研究から明らかになったことは…
第一章
ラ・ジオコンダ
九月八日
どうやらこのスーザという男は見かけによらずイタリア美術の“通(コネッサー)”らしい。美術商はスーザに言った。
「今この方に現在美術市場に出回っているレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は皆無だという話をしていたんですよ。もしレオナルド作だというものがあるなら、それは九十九パーセント偽物だと言っていい」
スーザはうなずいて言った。
「彼の作品は美術館に展示されて、これがレオナルドだと言われているものですら怪しいのが結構ある」
「これはどうですか?」
忠司はつい一昨日ウフィツィ美術館で見た、レオナルド作『受胎告知』をスマホに出して見せた。忠司はジャーナリストになってからというもの、カメラ、タブレット、二台の仕事用と私用のスマホを片時も身から離さず持ち歩いている。昨日や一昨日に見たばかりの絵を出せるところが、フィレンツェにいる紛れもない余徳というものである。東京にいたらこうはいかない。
この絵はこうして改めて見直すと、聖母の胴体が足に比べてどう見ても長すぎる。新来の客は実はこの絵の聖母のプロポーションについては、多くの美術史学者が論争していると言った。
「でも背景にはダ・ヴィンチの特徴がはっきり表れていますね? ダ・ヴィンチの発明した“スフマート(ぼかし)”で描かれた遠景は……」
スフマートはイタリア・ルネッサンス期に確立された絵画技法である。景色や人物の形を描くのに、線描法ではなく、光の明暗や陰影を利用して何度も絵の具を塗り重ね、立体的に浮かび上がらせる。この技法により、中世の宗教画などに見受けられた平板だった絵画が、より深く表現出来るようになった。
もう一つ、レオナルドが景色を描くのに用いた技法は空気遠近法である。ものは距離によって空気が介在し、線や色彩が曖昧に霞んで見える。この描写を用いることによって人物画の背景は奥行きが深くなり、三次元の広がりを表現することが出来るようになった。この発明はその後の古典派から後期印象派に至る西洋絵画に、長く影響を与えることになる。だが新来の男は首を横に振って言った。
「一つご忠告してもいいですか? この町では小学生でもレオナルドのことを“ダ・ヴィンチ”とは言いません。“ダ・ヴィンチ”とは“ヴィンチ村出身の(from the Vinci Village)”という意味でレオナルドを指す名前ではない。折角“スフマート”という言葉をご存知なのにね」
「レオナルドだけだと他にも大勢いるんじゃ……」
「この町でレオナルドと言えば有名なハリウッド俳優でもなく、高度の医療機器でもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチ一人だけです」