【前回記事を読む】15歳の定時制高校生たちが、「ニッカポッカ」の歌を詠んだ。つまり仕事の歌…それが生徒たちの「ありのまま」だった。

春の記

2021.1.23
大村藩つながり、松林飯山―楠本正隆―岡鹿門(千仞)

大村藩

肥前彼杵(そのぎ)郡におかれた藩(長崎県中央部大村湾岸)。藩主大村氏。二万八千石。大村氏は鎌倉時代から地頭としてこの地を支配。戦国時代には純忠が本領確保につとめ、関ヶ原の戦に子喜前が徳川方に属し本領を安堵。以後、廃藩置県に至る。

1833(天保4)年―11月2日、岡鹿門(千仞)仙台藩士の五男に生まれる。

1838(天保9)年―楠本正隆、肥前長崎で生まれる。幼名は小一郎。

1839(天保10)年―2月、松林飯山(廉之助)、筑前早良郡飯盛山下(福岡県)に生まれる。名は漸。父・杏哲は医者で、絵をよくし、そのため山紫水明の大村を愛して移り住む。

1847(弘化4)年―飯山9歳のとき一家で大村藩の蠣ノ浦(かきのうら)に移り住む。

1850(嘉永3)年―大村藩主は、美少年で神童の誉れ高い12歳の松林飯山を召し、唐詩を講じさせる。すると、評判にたがわず、唐詩百首を一字も間違えず暗誦、居合わせた大人をおどろかせた。藩主は飯山を藩校・五教館表生定詰と一口俸を与える。

1851(嘉永4)年―江戸練兵館の「鬼歓」こと斎藤歓之助、大村藩仕官。

――藩の士気が従来からすこぶる振るって……武道においては剣客・斎藤弥九郎の一子寛(歓)之助が召し抱えられた程であります……近年、帝大の総長には大村出身の人が四人までなられて……その流れを遡れば藩学・五教館の教授であった松林飯山に出会わないわけにはいかないのである……(「双松岡」松田栄一著、大阪帝国大学内1943)。

藩主が江戸へ出るとき、飯山少年は藩主が徒歩のときは籠に乗った。それほど藩主に愛されたのである。