1863(文久3)年―1月、松林飯山は再び京阪にで、天誅組の藤本鉄石や勤皇の志士と交流、6月、大村に帰郷。

8月、藩主・大村純煕(すみひろ)、長崎総奉行に任ぜられる。当時、大村藩も佐幕派と倒幕派の対立が生じていた。そこで、藩主の長崎総奉行をきっかけに、浅田家老を中心とする佐幕派が倒幕派を弾圧する挙に出た。ところが、これが倒幕派の結束を固めることになってしまった。

9月、天誅組大和義挙(大和五条の天誅組の変)で松本奎堂、戦死。

10月、大村藩、勤皇三十七士同盟(大村三十七士)が結ばれ、本格的に尊皇攘夷運動を展開。楠本正隆も飯山の同志であった。

1864(元治元)年―9月、藩主が長崎総奉行を辞任するとまもなく、藩政の重職は佐幕派主流から尊皇攘夷をとなえる改革派にとってかわる。

10月、藩主による「積年の流弊一洗いたすべき」諭告と、それをうけた家老よりの幕府批判の「口上」がだされ、ここに至って藩論は尊皇攘夷に統一される。幕末雄藩の藩論決定には、家臣団の間におこった改革派の活躍の場合が多いが、大村藩の場合には、藩主による上からの改革だといわれる……藩論が固まったとはいえ、佐幕派の勢力が消滅したわけではなく、両派の対決は一層激しくなる。

1866(慶応2)年―松林飯山、大村藩医・長与俊達(※1長与専斎の父)の墓碑銘を書く。

――松林飯山は、人も知る如く識見一代にすぐれた少壮の勤王派であったが……彼が書いた俊達の墓碑銘には、かれ俊達の功績とともに人物を誉め、併せてその墓碑銘をかれに依頼した父専斎のことにも言及し……(『適塾と長与専斎 衛生学と松香私志』伴忠康著、創元社1987)。


※1 長与専斎:岩倉使節団に加わり、のちコレラの予防など衛生行政に尽くす。

 

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