1853(嘉永6)年―アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦4隻を率い、浦賀に来航。高まりつつあった尊皇攘夷運動のなかで、大村藩はいち早く外海竹での台場(砲台)の築造、質素倹約令の発布、鉄砲組の編成、青少年藩士の長崎・江戸への遊学など、社会の変化に対応すべく種々の政策を打ち出した。
岡鹿門20歳、昌平黌(しょうへいこう)に入る。鹿門は才すぐれ、人一倍勉学したので詩文掛に選ばれ、舎長になる。
1857(安政4)年―飯山19歳で昌平黌入り、詩文掛となるまでのあいだに、松本奎堂(けいどう)・岡鹿門を知り、盟友となる。
1859(安政6)年―松林飯山、学成って大村へ帰り、馬廻りとして六十石を賜る。さらに弱冠22歳ながら藩校・五教館の学頭を命ぜられる。このとき、楠本正隆は藩命により監察となり松林飯山とともに子弟を育成する。岡鹿門は昌平黌を退学し仙台に帰るが、まもなく上方にもどり、さらに山陽・山陰路を歩いて再び大阪に戻る。
1860(万延元)年―松林飯山、京攝の間に遊学を命じられる。主に勤皇の志士と交遊して得た情報を逐一、大村に伝えていた。
1861(文久元)年―11月、天下の風雲いよいよ急を告げ志士往来の激しいときに勤皇の学塾・双松岡塾を開く。その場所は、大阪堂島沈流田簑‐玉井(玉江橋)の間である。名称は、昌平黌の同志、大村藩士・松林飯山、参州刈谷藩士・松本奎堂、仙台藩士・岡鹿門(千仞)から一字ずつ、二つの松(双松)と岡で双松岡。この塾には学僕・山東一郎(のち直砥)がいた。
1862(文久2)年―5月、町奉行の圧迫により双松岡は解散、それぞれの道を歩むことに。岡鹿門は仙台へ帰郷。松本奎堂と山東一郎は淡路島へ赴く(『明治の一郎・山東直砥(なおと)』)。松林飯山は大村へ帰って再び五教館の助教に任じられ、京阪で見聞したこと、おもに幕府の専横を子弟に語り、彼らの心を動かす。