【前回記事を読む】日本人初の女性オリンピック選手は、中学生の頃に走り幅跳びで日本新記録を出した。記録は、4m越えの…
春の記
2021 1.16
アムステルダムオリンピック・人見絹枝、東京五輪・東洋の魔女
人見絹枝(ひとみきぬえ)〈日本人初の女性オリンピック選手〉
1926(大正15)年―4月、二階堂体操塾、財団法人日本女子体育専門学校となる。5月、大阪毎日新聞入社。後輩の藤村蝶とともに大阪に下宿。8月、第2回国際女子競技大会、スウェーデン・イエテボリ。一人で参加。毎日新聞の記者が付き添った。走り幅跳び5m50cm、立ち幅跳び2m49cmで優勝。11月、スウェーデンから帰国。大人気で岡山駅は黒山の人だかりだった。
1927(昭和2)年―谷三三五(ささご)に専任コーチを依頼。5月、女子体育大会。200m走 26秒1、立ち幅跳び2m61cmで世界新記録。
1928(昭和3)年―5月、全日本陸上競技選手権。100m走12秒2、走り幅跳び5m98cmでともに世界新記録。8月、オリンピック・アムステルダム大会。女子800mでドイツのラトケと競り合って銀メダル、日本女子最初のメダリストになった。
絹枝は2位だったが※1織田幹雄が三段跳びで優勝、オリンピックで日本選手優勝は史上初、日の丸が掲揚され絹枝は「君が代」演奏を織田と涙を流して喜んだ。
1929(昭和4)年―5月、人見絹枝著『スパイクの跡』出版。
1930(昭和5)年―9月、国際女子競技大会プラハ大会。走り幅跳び5m90cmで優勝。大会後、ヨーロッパ各地を遠征。ポーランド女子対抗競技会、日・英・独女子競技大会、ベルギー女子対抗、日・仏女子対抗競技などに参加。11月、白山丸で海路帰国。
帰国するや連日、講演会や報告会に追われ休みがなく、海外遠征の無い年でも、年間200回もの講演、報告会をこなした。そうしているうちに身体は疲れ、咳がでるようになった。
1931(昭和6)年―4月、大阪帝国大学付属病院に緊急入院。8月2日、肺結核のため死去。享年24歳。
――「人見絹枝嬢の死」世界的な輝ける存在だった人見絹枝嬢は、流星の如く墜ちた。