およそ日本人の死として、世界各国に伝わるもの、人見嬢の如きはいくらもあるまい。日本女性の最高記録だ。二十五歳は短い。けれども女子競技会の開拓者としての嬢の名は不朽だ。その一生は、余剰物を排除した、清らかな、美しいエキスだった。
全国中等女教員大会で、良妻賢母主義の教育は、役に立たぬ。勤労主義の教育を取り入れ、女子の職業指導を行うべきだとの意見が出た(『溜飲を下ぐ』)。9月、チェコスロバキアのプラハ市郊外のオルシャンスキー記念公園墓地に「人見絹枝記念碑」建立。
東洋の魔女・女子バレーボール
1957(昭和32)年―ブルガリアで行われたIOC総会で、新しくアーチェリーとバレーボールが1964年以降の実施競技に加えられることになった。日本はそれまでの9人制でなく、国際式の6人制を採用しバレーボールチームを積極的に海外へ派遣。9人制はレクリエーション性の強いスポーツとして定着していく。
1960(昭和35)年―日紡貝塚はオリンピック強化のための海外遠征に単独チームでインドネシア、ブラジルの世界選手権大会に遠征。
1961(昭和36)年―ヨーロッパ遠征(三大陸カップ)で22戦全勝。この遠征で日紡貝塚は、当時、世界選手権三連覇中のソ連を破り、「東洋の魔女」とソ連メディアから命名される。
1962(昭和37)年―日紡貝塚は単独チームで世界選手権大会に出場、長年のライバルであるソ連を決勝で破って優勝。全国紙の一面を飾る大人気であった。
1963(昭和38)年―日紡貝塚女子バレーボールチーム、ヨーロッパに三度遠征し26戦全勝。
1964(昭和39)年―東京オリンピック 女子バレーボールが金メダルに輝く。
2020(令和2)年―12月4日 東洋の魔女、主要メンバー、井戸川(旧姓谷田)絹子さん死去。大阪府出身。東京オリンピックのバレーボール競技、エーススパイカーとして金メダル獲得に貢献。2018年現在もバレーコーチとしても活動していたが、脳出血のため死去。享年81歳。