ピアノおじさん

一九八七年、歴史家のマロニエさんが七八歳で亡くなりました。

三週間ほど前の夜間に吐血したマロニエさんは、救急車でM病院に入院しました。

担当の槐は翌日病院に駆け付け、広い手術控室で酸素マスクのマロニエさんにお会いして胸が痛みました。

控室にもう一人待機していた、手足のない患者さんの姿に目を奪われ、狼狽していた槐に医師が告げたのです。

「末期の胃がんです。直ぐ切除をしましょう、命にかかわる状態です」

アメリカ在住の親族へ連絡することが頭をよぎり、急いで槐は職場に戻りました。先輩のフジ児童福祉司さんに通訳をお願いし、M州在住の娘さんに連絡してもらいました。マロニエさんの病状を伝えることができホッとしました。

娘さんはM大学癌研究所の研究者と聞き、来日を待ちつつマロニエさんの回復を願ったのですが、数日の違いで会うことができませんでした。

娘さんはマロニエさんの自宅で楽譜を見付けました。近所の公民館でよくピアノを弾き、「ピアノおじさん」と市民に親しまれた父親の想い出の形見、楽譜を抱いて、娘さんは帰国しました。

しばらくして娘さんから、「美しい妻と四人の娘、チャイニーズレディースです」と書かれた写真が届きました。

手紙には「母は娘たちに教育を受けさせるため、父を中国に残してアメリカに亡命しました。過保護に育てられたわたしは、老いた父に思い至りませんでした。父は三年前に渡米し家族を訪ね、わたしの上司のM大学長と会談し、一緒に撮ったのがこの写真です。父の愛を受けたのに看てやれなかったことを悔います」と書かれていました。

マロニエさんは東京文理科大学に留学、中国の南京・浙江大学の教授歴、一九五二年に日本に移り住み学究生活をしてきました。

近くを流れる多摩川の堤を以前はよく散歩するマロニエさんでした。河原に可憐に咲く撫子が、故郷の優しさと重なり、マロニエさんのピアノの音色となって、地域の人々に届いたのでしょうか、ピアノおじさんは戦争のない世界を願って旅立ったと槐は思いました。

一九五〇年代のマロニエさん一家は、苦難の歴史を歩まれました。マロニエさんの居場所は限られ、東京で一人暮らしの作家人生でした。その人生の最後にケースワーカーの槐は立ち会ったのでした。

 

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