【前回の記事を読む】世の中の犯罪の多くは、脳のある部分の暴走によるものとされている。現実と幻を錯覚する恐れがある、その部位の名は……
第一章 自己の真実性
第二節 自己の本質
第一項 人間の本質
民族や文化、国家にかかわらず、歴史を超えて人間が人間であるべき姿が人間の本質である。だから、国や言語、民族が違っても、時代を経ても人間の本質は変わらない。
「人間には真実はないというのが人間の真実相である」村上速水『親鸞教義の研究』(1)
と言わざるを得ない。
人間であるべき姿としての人間の本質を問うならば、それが自己の本質としての真理であろう。
自己の本質とは、人間としての本質を問うことである。
人間の本質とは、民族や文化、国家にかかわらず、歴史を超えて人間が人間であるべき姿が人間の本質であると考える。
時実利彦の『人間であること』(2)では、
人間が人間である姿から人間であるべき姿への問いの必要性を述べている。
人間ですばらしく分化発達している前頭連合野は、わたしたちをして、よく生きていかせると同時に、集団と個の対立、個と個の対決という厳しい試練に耐えて生きていくことを余儀なくさせている。
この対立の処理の仕方に人類の将来がかかっている。
ホモ・サピエンス(賢きもの)としてのわたし、
ホモ・スツルツス(愚かなるもの)であるわたし、
時実は、この二つのわたしを通して考えていかなければならないと言う。
真理の教えでは、相対的な現象世界の奥に一切平等、一切肯定の大調和を観た世界があること。
そして、わたしたちが他と一つに融け合うことができた時、大きな喜びと安らぎを感じる。そこに、あらゆる存在はただ一色の等しく尊い存在であるとする境地が開かれる。
つまり、国や言語、民族が違っても、時代を経ても人間の本質は変わらないということではないだろうか。
その本質はさまざまな分野で諸説あるが、ここでは人類学的に問うことにする。