【前回の記事を読む】学生時代に住んでいた「西川口」には「邪魔」がいなかった。当時、1人のクルド人もいなかった川口市での生活は…

1.大学院を辞めるに至った経緯。

しかし、そういう「邪魔」のまったくない環境で暮らしたことのない私は、自分の専門である、バルザックの「人間喜劇」をプレイヤッド版で二時間読むことを軸に立てた予定表通りの生活をこなし始めた。

しかし次第に、そうした不自然な環境に息が詰まるような孤独感に襲われ、まず、毎日酒を飲むようになり、半年後には、日本酒なら六合以上、ウィスキーならボトル半分以上呑むようになってしまった

(なぜ六合以上、半分以上と覚えているかというと、せめて酒屋へ行くのを二日に一度しようとしても、どうしてもできなかったからである)。

そして、年末引いた風邪から、咳が抜けなくなり、それでも、酒とタバコをやめられず、予定表通りの勉強を続けていたら、夕方になると、微熱が必ず出るようになった。

小説で読んだ「典型的な結核の症状」だな、と思いながらも、深刻には考えず、医者にも行かなかった。

ところがある晩、猛烈な熱が出て、三時頃、目を覚ましたら、右半身が痺れているような感覚を覚え、これは間違いなく、ヤバいと腹の底が寒くなった。そして、明るくなるのを待って、ショルダーバッグ一つで、電車に乗って、実家のあるM市へと向かった。

そして翌日、大きな病院へ行くと、レントゲンの片肺が真っ白で、その時は急性肺炎と診断され、即、入院となった。

そして、一週間たって、肺炎の白い影が引けると、ピンポン玉大の影だけ、くっきり残り、「教科書に載っているような」「典型的な結核の影」だと医師に感心され、翌日、専門病棟のある病院へ移されることになったのだった。

しかし、後で、あの時、結核にならず、あのまま孤独な生活を続けていたら、どうなったろうかと、時々思う事があった。

あれは自分の「自然」が呼んだ、どこまでも「意志と努力」で無理を押し通す自分の意識に対する、無意識の自己防衛だった、と思う。

実際、結核と診断され、長期入院が決まった時、私はほっとしたのを覚えている。そして、それまで、本代と酒代が嵩んで、食費に回らなかったので、

病棟の皆が不味いという病院食が何を食べても美味く、ストマイが劇的に効いたこともあり、みるみる体が回復して行くのが、自分でも実感できた。一か月後、ピンポン玉は、パチンコ玉大になり、「若いって、すごいなあ」と担当医師が感心し、八割方やる予定だった、外科手術をしないで済んだのだった。

そして一年近く入院し、病院を出ると、また懲りることなく一日二時間のプレイヤッド版の「人間喜劇」購読を核とした勉強とともに、修士論文の準備を始めると、

徐々に鬱気が体を蝕み始め、単位は、一年生のうち大体取ってしまっていたので、後、修士論文さえ提出すれば、修士の資格が取れるのに、どうしても書けなくなって、夜、眠れなくなった。それで生まれて初めて精神科に行くと「深刻な鬱病」と診断された。

それでも、酒を止め、薬を飲んでいると、何とか小康状態になり、なぜか「太陽の下で」自分の若い肉体を思い切り使って、働きたい、というイメージが繰り返し出てきた。

そこへ、信じられないことに、それまで知らなかった、母親の古い知り合いの、土建会社の社長が、ユング流に言うなら「まるで無意識が呼んだかのように」私の前に現れたのだった。