【前回記事を読む】母が入院して3週間後の深夜、病院から「お母様の意識がなくなりました。すぐ来てください」飛び起きてタクシーで駆けつけると…
第十三章 春の別れ
その夜、母の容態が再び悪化した。
呼吸が荒くなり、血圧が下がった。医師が緊急の処置をしたが、回復しなかった。
「これ以上の延命処置は、お母様を苦しめることになります」
医師は静かに言った。
「ご家族で、今後の方針を話し合ってください」
私は一人で決断しなければならなかった。
延命処置を続けるか、自然に任せるか。
母は何を望んでいるだろう。苦しみながら生き延びることを望んでいるだろうか。それとも、穏やかに旅立つことを望んでいるだろうか。
私は母の手を握りながら、問いかけた。
「お母さん、どうしたい?」
母は目を開けて、私を見た。その目は、穏やかだった。そして、小さく唇が動いた。
「あ……り……が……と……」
ありがとう。
その言葉が、母の答えだとわかった。
私は延命処置の中止を選んだ。
母を苦しませたくなかった。穏やかに、安らかに、旅立ってほしかった。人工呼吸器が外された。酸素マスクだけが、母の呼吸を助けていた。私は母のベッドサイドに座り、母の手を握り続けた。
「お母さん、ありがとう」
私は話し始めた。伝えたいことが、たくさんあった。
「産んでくれて、ありがとう。育ててくれて、ありがとう。いつも私のそばにいてくれて、ありがとう」
母の目は閉じられていたが、私の声は聞こえているはずだ。
「お母さんの子供で、本当に幸せだった。お母さんがいてくれたから、私は今の私になれた」
涙が止まらなかった。でも、私は話し続けた。
「北海道旅行、楽しかったね。ラベンダー、きれいだったね。青い池、神秘的だったね。また行きたかったな」
母の呼吸が、少しずつ浅くなっていった。
「雪合戦も楽しかったね。お母さん、子供みたいに笑ってた。あの笑顔、忘れないよ」
私は母の手を、強く握りしめた。
「お母さん、大好きだよ。ずっと、ずっと大好きだよ」
母が息を引き取ったのは、その日の夜明け前だった。
窓の外が薄明るくなり始めた頃、母の呼吸が止まった。心電図のモニターが、平坦な線を描いた。
「ご臨終です」
医師の言葉が、遠くで聞こえた。
私は母の手を握ったまま、動けなかった。まだ温かい。まだ母はここにいる。
でも、もう二度と、母の声は聞こえない。母の笑顔は見られない。母と話すことはできない。
「お母さん……」
私は母の体に覆いかぶさるようにして、泣いた。
「お母さん、嫌だよ。まだ一緒にいたいよ。行かないで」
でも、母は答えなかった。
穏やかな顔をしていた。苦しみから解放された、安らかな表情だった。
「お母さん……」
私は何度も母の名前を呼んだ。返事がないことはわかっていた。でも、呼ばずにはいられなかった。窓の外では、朝日が昇り始めていた。桜の花びらが、風に舞っていた。
母が好きだった、春の朝だった。