しかし、現実は厳しかった。
母の症状は、少しずつ、でも確実に進行していた。
ある日、母がトイレの場所がわからなくなった。家の中で迷って、廊下を行ったり来たりしていた。
「お母さん、どうしたの?」
「トイレ……トイレに行きたいの……でも、どこかわからなくて……」
私は母の手を取り、トイレに連れて行った。
「ここだよ、お母さん」
「ああ……ありがとう……」
母は恥ずかしそうに俯いた。
「ごめんなさいね。自分の家なのに、わからなくなっちゃって」
「大丈夫だよ。いつでも呼んでね」
その夜、私はトイレのドアに大きく『トイレ』と書いた紙を貼った。他の部屋にも、『台所』『リビング』『恵美の部屋』『お母さんの部屋』と書いた紙を貼った。
「これで迷わないでしょ」
「ごめんね、手間をかけて」
「手間なんかじゃないよ」
私は母の肩を抱いた。
「困ったことがあったら、何でも言ってね。一緒に解決しよう」
母は小さく頷いた。
食事の介助が必要になったのも、この頃からだった。
箸がうまく使えなくなり、スプーンを使うようになった。それでも、こぼすことが多くなった。
「ごめんなさい、また汚しちゃって」
母は食べこぼしを見て、落ち込んだ顔をした。
「大丈夫だよ。拭けばいいんだから」
私は笑顔で言いながら、テーブルを拭いた。
「お母さん、エプロンつけよっか。汚れても気にしなくていいように」
「エプロン……」
「かわいいのがあるんだよ。花柄の」
私は花柄のエプロンを取り出して、母につけた。
「どう? 似合う?」
「どうかしら……」
母は鏡を見て、少し笑った。
「意外と悪くないわね」
「でしょ? これで安心して食べられるね」
食事の時間が長くなっても、私は急かさないようにした。母のペースに合わせて、ゆっくり食べた。
「おいしい?」
「おいしいわ」
母が笑顔で答えてくれると、それだけで私は幸せだった。
入浴の介助も必要になった。
最初は恥ずかしがっていた母も、次第に受け入れてくれるようになった。
「恵美に裸を見られるなんて、恥ずかしいわ」
「何言ってるの。私を産んだのはお母さんでしょ。お互い様だよ」
私はなるべく明るく言った。
「それに、小さい頃は一緒にお風呂入ってたでしょ」
「そうだったわね……」
母は懐かしそうに目を細めた。
「恵美は、お風呂が大好きだったわ。いつもなかなか出たがらなくて」
「そうだったの?」
「うん。『まだ入る、まだ入る』って。お父さんが『のぼせるぞ』って心配してたわ」
昔話をしながら、私は母の体を洗った。痩せた背中、細くなった腕。いつの間にか、こんなに小さくなっていたのか。
「気持ちいい?」
「ええ、気持ちいいわ」
母は目を閉じて、湯船に浸かっていた。その顔は穏やかだった。
「恵美」
「なに?」
「ありがとうね」
「何度も言わなくていいよ」
「でも、言いたいの。感謝してるから」
私は母の手を握った。
「私こそ、ありがとう。お母さんと一緒にいられて、幸せだよ」
湯気の中で、二人の涙が混じり合った。
▶この話の続きを読む
「3日も熱が続くのはおかしい」と母を病院へ連れて行くと…病名を聞き、「入院が必要」頭が真っ白になった。
【イチオシ記事】「凄いイケメンくんだ…ちょっと想像以上だわ」肩から少しずつ脱がされ、身体を重ねるような密着マッサージがはじまり…