第五章 葛藤と後悔
しかし、すべてが美しい瞬間ばかりではなかった。
介護の日々には、避けられない葛藤がある。どれだけ母を愛していても、どれだけ大切に思っていても、人間には限界がある。私もまた、その限界に何度もぶつかった。
ある朝のことだった。
私は会社の重要なプレゼンテーションを控えていた。前夜は資料作りで遅くまで起きていて、睡眠時間は3時間ほどしかなかった。頭がぼんやりする中、急いで身支度を整えていた。
「恵美、鍵がないの」
リビングから母の声が聞こえた。
「また?」
私は思わず声を荒らげてしまった。
「昨日も同じこと言ってたでしょ。玄関の鍵掛けに掛けてって、何度も言ったよね」
母は黙っていた。私は苛立ちを抑えられず、リビングに行った。
「どこに置いたの? ちゃんと思い出して」
「わからないの……さっきまで持ってたと思うんだけど……」
母の声は小さく、震えていた。でも、その時の私には、母の気持ちを察する余裕がなかった。
「もう、本当に困るんだけど。私だって忙しいのに」
私はイライラしながら部屋中を探し回った。ソファの下、テーブルの上、キッチンのカウンター。どこにもない。
「いつもいつも同じことの繰り返し。どうして覚えられないの」
その言葉を発した瞬間、私は自分の言葉の残酷さに気づいた。振り返ると、母が俯いていた。その肩が小刻みに震えていた。
「お母さん……」
「ごめんなさい……」
母の声は涙で詰まっていた。
「私だって、忘れたくて忘れてるわけじゃないの。覚えておこうと思っても、気づいたら忘れてるの。自分でも怖いのよ。どうしてこうなっちゃったんだろうって……」
私は立ち尽くした。
何てことを言ってしまったのだろう。母が一番苦しんでいるのに。病気と闘っているのは母なのに。私は自分の都合で、母を傷つけてしまった。
「お母さん、ごめん。本当にごめん」
私は母に駆け寄り、抱きしめた。母は声を殺して泣いていた。その小さな体が、震えていた。
「ひどいこと言った。本当にごめん」
「いいの……恵美も大変なんでしょう……」
「そんなの言い訳にならないよ。お母さんを傷つけていい理由にはならない」
私も泣いていた。自己嫌悪で胸が潰れそうだった。
結局、鍵は母のエプロンのポケットから見つかった。母は朝食を作っているときに、無意識にポケットに入れてしまったらしい。
「あった……ごめんなさいね、こんなところに入れて……」
母は申し訳なさそうに鍵を差し出した。私は鍵を受け取りながら、もう一度謝った。
「お母さんは悪くないよ。私こそ本当にごめん」
その日、会社のプレゼンテーションは何とか成功した。でも、私の心は晴れなかった。朝の出来事が、ずっと頭から離れなかった。
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脳の断面図を前に“ある病”を診断された母…「来年も紅葉、見られるかしら」という言葉に、私はドキッとした。