【前回記事を読む】北海道・美瑛の丘にぽつんと立つ1本の木。それは「昔、タバコのパッケージに使われてた」あの有名な木で…
第三章 北海道への旅
家に帰ってから、母は旅行の写真を何度も見返していた。
「ほら、これがラベンダー畑よ。きれいでしょう」
伯母が遊びに来たとき、母は嬉しそうに写真を見せていた。
「まあ、素敵ね。本当に紫色なのね」
「そうなの。香りもすごくよかったのよ」
母は生き生きと旅行の思い出を語っていた。その姿を見て、伯母は私に目配せをした。
「恵美ちゃん、いい旅行だったみたいね」
「うん。お母さんがすごく喜んでくれて」
「よかったわ。お母さん、こんなに元気な顔、久しぶりに見たわ」
伯母の言葉に、私は頷いた。確かに、母の表情は旅行前と比べて明るくなっていた。しかし、その変化が長く続くわけではなかった。
旅行から2週間ほど経った頃、母に少し気になる様子が見られるようになった。
「恵美、私たち、北海道に行ったわよね」
ある日の夕食時、母が突然そう言った。
「うん、行ったよ。先月」
「そうよね。ラベンダー畑を見たわよね」
「うん。きれいだったよね」
「……どこのラベンダー畑だったかしら」
私は箸を止めた。母は首を傾げて、考え込んでいた。
「富良野だよ。ファーム富田っていう農園」
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい、ちょっと思い出せなくて」
母は申し訳なさそうに笑った。私は何でもないふりをして、食事を続けた。でも、心の中では不安が広がっていた。
あれほど楽しかった旅行の記憶が、もう薄れ始めているのだろうか。
その夜、私は自分の部屋で旅行の写真を見返した。ラベンダー畑で撮った二人の写真、青い池での自撮り、小樽運河での一枚。どの写真にも、母の笑顔が写っていた。
この笑顔を、母は覚えているだろうか。この幸せな気持ちを、まだ感じているだろうか。
私は写真をプリントアウトして、アルバムを作ることにした。写真の下には、日付と場所、そしてその時の思い出を書き添えた。
「2024年7月15日 中富良野・ファーム富田にて。ラベンダーの香りがすごくよかった。お母さんが『来てよかった』と何度も言ってくれた」
「2024年7月16日 美瑛・青い池にて。神秘的な青色に二人で感動。自撮りを何度も撮り直した」
「2024年7月17日 小樽運河にて。チーズケーキがおいしかった。来年の冬にまた来ようと約束した」
アルバムが完成したとき、私は母にプレゼントした。
「これ、何?」
「北海道旅行のアルバム。写真と一緒に、思い出も書いておいたよ」
母はページをめくりながら、目を細めた。
「まあ、こんなに丁寧に。ありがとう、恵美」
「忘れちゃっても、これを見れば思い出せるでしょ」
私がそう言うと、母は少し寂しそうに笑った。
「そうね。忘れちゃうかもしれないものね、私」
「違うよ、そういう意味じゃなくて」
「いいの。わかってるわ」
母はアルバムを大切そうに抱きしめた。
「ありがとう。これ、宝物にするわ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ救われた気持ちになった。たとえ記憶が薄れても、このアルバムがあれば、いつでも思い出を呼び起こすことができる。そう信じたかった。