第四章   3つの死

ある夜、 私はインターネットで認知症について調べていた。

病気の進行、介護の方法、家族の心構え。様々な情報を読み漁る中で、ある言葉に目が留まった。

「人間は3度死ぬ」

それは、メキシコの死生観に基づいた考え方らしかった。興味を引かれて、詳しく読んでみた。

1度目の死は、「社会的な死」。自分の名前や家族の名前を忘れ、アイデンティティが失われるとき。自分が誰であるかわからなくなる、精神的な死。

2度目の死は、「肉体的な死」。心臓が止まり、呼吸が止まり、身体の機能が終わるとき。私たちが一般的に「死」と呼ぶもの。

3度目の死は、「存在の死」。その人のことを覚えている人が誰もいなくなったとき。記憶からも文化からも消えてしまったとき。それが、本当の意味での「死」なのだという。

この考え方を知ったとき、 私は胸を突かれるような感覚を覚えた。

母は今、その「1度目の死」に向き合っているのかもしれない。少しずつ、記憶の断片が母の中からこぼれ落ちている。いつか、自分の名前さえ忘れてしまう日が来るかもしれない。

でも、私がいる限り、母は「3度目の死」を迎えることはない。

私が母の人生を覚えている限り、母の思い出を語り続ける限り、母は存在し続ける。たとえ母自身が忘れてしまっても、私の中に母は生き続ける。

その考えは、私に少しだけ希望を与えてくれた。

翌日、私は母にこの話をした。

「お母さん、『人間は3度死ぬ』って話、知ってる?」

夕食後、二人でお茶を飲みながら、私は切り出した。

「3度? どういうこと?」

私は昨夜読んだ内容を、母に説明した。母は真剣な表情で聞いていた。

「なるほどね……」

話を聞き終えた母は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「つまり、誰かに覚えていてもらえる限り、その人は生き続けるということね」

「うん。そういうこと」

「いい考え方ね」

母は穏やかな表情で微笑んだ。

「じゃあ、私はまだ大丈夫ね。恵美が覚えていてくれるんでしょう」

「当たり前だよ。絶対に忘れない」

「ありがとう」

母は私の手を握った。

「私もね、お父さんのことを覚えてるわ。お父さんが亡くなってから5年経つけど、今でも鮮明に覚えてる。顔も、声も、笑い方も」

母の目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「私が覚えている限り、お父さんは生きてるのよね。私の中で」

「うん。そうだと思う」

「だったら、私が忘れても、恵美が覚えていてくれたら、私も生き続けることができるのね」

私は強く頷いた。

「絶対に覚えてる。お母さんのこと、全部」

母は微笑んで、私を抱きしめた。

「ありがとう、恵美。あなたがいてくれて、本当によかった」

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