【前回記事を読む】2週間前の旅行について「ちょっと思い出せなくて」と笑う母…私は何でもないふりをして食事を続けたが…

第四章   3つの死

その夜から、私は母との時間をより大切にするようになった。

何気ない日常の中にも、記憶に残したい瞬間がたくさんあることに気づいた。

朝、母が作ってくれる味噌汁の味。少し濃いめで、具沢山。私が子供の頃から変わらない味だ。

昼、母が庭で花の手入れをしている姿。丁寧に土をいじり、優しく花に話しかける。

「今日も元気ね」

「お水あげるわね」

夜、二人でテレビを見ながら過ごす時間。くだらないバラエティ番組で一緒に笑う。時々、母が「この人、誰だったかしら」と首を傾げる。

そんな些細な日常が、かけがえのないものに思えた。

私はできるだけ多くの写真を撮るようになった。母の日常の姿、笑顔、何気ないしぐさ。いつか母がすべてを忘れてしまったときのために。いつか私が母を思い出すときのために。

「恵美、また写真撮ってるの?」

母が呆れたように言う。

「だって、お母さんかわいいんだもん」

「何言ってるの、このおばあちゃんのどこがかわいいのよ」

「全部かわいいよ」

母は照れくさそうに手を振った。でも、その顔は嬉しそうだった。

ある日、母が古いアルバムを引っ張り出してきた。

「恵美、ちょっとこれ見て」

「何、どうしたの?」

母はアルバムを広げて、一枚の写真を指さした。若い頃の母が、赤ちゃんを抱いている写真だった。

「これ、あなたが生まれた日の写真よ」

「ええ、本当?」

私は写真をじっと見つめた。母は40代前半くらいだろうか。疲れた表情をしているが、目は幸せそうに輝いていた。腕の中の赤ちゃんの私は、すやすやと眠っていた。

「この日のこと、今でも覚えてるわ」

母は懐かしそうに目を細めた。

「陣痛が始まったのが、朝の4時頃でね。お父さんを起こして、病院に行ったの。でも、なかなか生まれなくて、結局夕方までかかったのよ」

「大変だったんだね」

「ええ、本当に大変だった。でもね、あなたの顔を見た瞬間、全部吹き飛んだわ。こんなにかわいい子が私のお腹にいたのかって、信じられなかった」

母の声は、少し震えていた。

「お父さんもね、すごく喜んでたわ。あの無口なお父さんが、看護師さんに『見てください、うちの子です』って自慢してたのよ。恥ずかしかったわ」

私は思わず笑った。父の照れ隠しのような自慢話が、目に浮かぶようだった。

「お父さん、そんなことしてたの?」

「ええ。普段は絶対にそんなことしない人なのにね。よっぽど嬉しかったんでしょうね」

母は写真を撫でるように触れた。

「あなたが生まれてから、私の人生は変わったわ。あなたを育てることが、生きがいになった。大変なこともたくさんあったけど、幸せだった」

「お母さん……」

「だからね、恵美。私がいろんなことを忘れても、あなたを産んでよかったっていう気持ちだけは、絶対に忘れないと思う」

私は母を抱きしめた。涙が止まらなかった。

「私も、お母さんの子供で幸せだよ。本当に」

母も泣いていた。二人で抱き合いながら、しばらく泣いた。