【前回記事を読む】新千歳空港に到着すると、母は深呼吸した。確かに、東京の空気とは違って、北海道の匂いは…
第三章 北海道への旅
農園の入り口をくぐると、目の前に紫色の絨毯が広がっていた。
「わあ……」
母が声を漏らした。私も、息を呑んだ。
一面のラベンダー畑。紫、薄紫、白。色とりどりの花が、緩やかな丘の斜面を覆っている。その向こうには、青い山々が連なっている。
「きれい……」
母の目には、涙が浮かんでいた。
「本当にきれいね。テレビで見るより、ずっとずっときれい」
母はゆっくりとラベンダー畑の中を歩いた。紫色の花々の間に設けられた小道を、一歩一歩、踏みしめるように。
私は母の少し後ろを歩きながら、その背中を見つめていた。小柄な体、少し丸くなった背中、白髪交じりの髪。いつの間に、こんなに小さくなったのだろう。子供の頃、母の背中はもっと大きく見えた。どんなときも頼りになる、安心できる存在だった。
「恵美、ほら、見て」
母が振り返って手招きした。私は小走りで母のそばに行った。
「この花、すごくいい香りがするわ」
母はラベンダーの花に顔を近づけて、深く息を吸い込んだ。私も同じようにしてみた。甘く、爽やかな香りが鼻腔を満たした。
「本当だ。いい香り」
「アロマオイルとは全然違うわね。 やっぱり本物は違う」
母は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、私は心からこの旅行を計画してよかったと思った。
私たちはラベンダー畑の中をゆっくりと歩いた。母は何度も立ち止まって写真を撮った。スマートフォンを構える姿も、すっかり板についていた。
「お母さん、一緒に撮ろうよ」
「え、私も?」
「当たり前でしょ。せっかく来たんだから」
私は通りがかりの観光客にお願いして、二人の写真を撮ってもらった。ラベンダー畑を背景に、母と並んで立つ。
「はい、チーズ」
シャッター音が響いた。スマートフォンの画面を確認すると、二人とも満面の笑みを浮かべていた。母の目尻には皺が刻まれていたが、その笑顔は若い頃と変わらない輝きを持っていた。
「いい写真ね」
「うん。後でLINEで送るね」
「そうして。親戚にも見せたいわ」母は満足そうに頷いた。
ラベンダー畑を一通り見て回った後、私たちは農園内のカフェで休憩することにした。母の足取りが少し重くなっていたのが気になっていた。
「お母さん、疲れたでしょ。少し休もう」
「そうね。少しだけ」
カフェのテラス席に座ると、目の前にはラベンダー畑が広がっていた。私はラベンダーソフトクリームを二つ注文した。
「これ、ラベンダー味なんだって」
「へえ、おもしろいわね」
紫色のソフトクリームを一口食べると、ほんのりとラベンダーの香りが口の中に広がった。甘すぎず、爽やかな味わいだった。
「おいしい」
母も目を細めて味わっていた。
「こんなおいしいもの、初めて食べたわ」
「北海道は食べ物がおいしいって言うもんね」
「本当ね。来てよかった」
母はソフトクリームを食べながら、ラベンダー畑を眺めていた。その横顔には、穏やかな表情が浮かんでいた。
「恵美」
「なに?」
「ありがとうね」
母の声は静かだったが、深い感謝の気持ちがこもっていた。
「何が?」
「こんな素敵な旅行に連れてきてくれて。私なんかのために」
「お母さんなんかって言わないでよ。お母さんのために旅行を計画したんだから」
「でも、お金も時間もかかるでしょう。仕事だって忙しいのに」
私は母の手を握った。