「お母さんが喜んでくれるなら、それでいいの。お母さんの笑顔が見られたから、私も嬉しいよ」
母の目に涙が浮かんだ。私も少し目頭が熱くなった。
「お母さんがいてくれるから、私は今ここにいるんだよ。だから、恩返しさせて」
母は何も言わず、ただ私の手を握り返した。二人でしばらく、ラベンダー畑を眺めていた。風がそよぎ、ラベンダーの香りが漂ってきた。
この瞬間を、忘れたくない。たとえ母がこの記憶を失っても、私だけは覚えていよう。そう心に誓った。
その夜、私たちはホテルの部屋で夕食を取った。北海道の海の幸をふんだんに使った会席料理。新鮮な刺身、焼きたての魚、季節の野菜。どれも絶品だった。
「おいしいわねえ」
母は一品一品、丁寧に味わっていた。
「お刺身が特においしい。東京とは鮮度が違うわ」
「本当だね。こんなおいしいお刺身、久しぶりに食べた」
食事を終えた後、私たちは温泉に入った。露天風呂から見上げる空には、満天の星が輝いていた。
「星がきれいね」
母が空を見上げて言った。
「東京じゃ、こんなに星は見えないわね」
「うん。光が多すぎて」
お湯に浸かりながら、私たちは星を眺めていた。どこからか虫の声が聞こえてきた。静かで、穏やかな夜だった。
「恵美」
「なに?」
「私ね、怖かったの」
母の声は、いつもより小さかった。
「認知症って診断されてから、毎日が怖かった。どんどん忘れていって、いつか自分が誰かもわからなくなるんじゃないかって」
私は黙って母の話を聞いていた。
「でもね、今日ここに来て、少し気持ちが楽になった」
「どうして?」
「こんなに素敵な景色を見て、おいしいものを食べて、恵美と一緒に過ごして。今この瞬間が幸せだって思えたの。未来のことを心配しても仕方ない。今を大切にしようって」
母は空を見上げながら続けた。
「たとえ私がいろんなことを忘れても、この幸せな気持ちは、きっとどこかに残ると思う。記憶は消えても、感情は消えないんじゃないかって」
その言葉を聞いて、私は涙が止まらなくなった。
「お母さん……」
「泣かないの。せっかくの旅行なんだから」
母は笑いながら、私の涙を拭ってくれた。その手は温かかった。
「私こそ、ありがとう。恵美がいてくれて、本当によかった」
「お母さんこそ。私のお母さんでいてくれて、ありがとう」
星空の下、私たちは抱き合った。温泉の湯気が、夜空に向かって立ち上っていった。
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