チェックインを済ませ、手荷物検査を通過した。出発ロビーで飛行機を待っている間、母は窓の外を眺めていた。滑走路を行き交う飛行機を、子供のように目を輝かせて見つめている。

「あの飛行機、大きいわねえ」

「あれはジャンボジェットだよ。私たちが乗るのは、もう少し小さい飛行機」

「そうなの。でも、楽しみだわ」

搭乗が始まり、私たちは飛行機に乗り込んだ。母は窓側の席を希望したので、私は通路側に座った。離陸の瞬間、母は少し体を強張らせた。私は母の手を握った。

「大丈夫、大丈夫」

飛行機が空に舞い上がると、母は窓の外を見つめて歓声を上げた。

「すごい! 雲の上に出たわ!」

眼下には、白い雲海が広がっていた。まるで綿菓子の海の上を飛んでいるようだ。

「きれいでしょう」

「本当ね。こんな景色、初めて見るわ」

母は夢中で窓の外を眺めていた。その横顔を見ながら、私は幸せな気持ちになった。

約1時間半のフライトを経て、私たちは新千歳空港に到着した。空港を出ると、東京とは違う空気が肌に触れた。少しひんやりとしていて、どこか清々しい。

「空気がおいしいわね」

母が深呼吸をした。私も同じように深呼吸をした。確かに、東京の空気とは違う。自然の匂いがする。空港からレンタカーを借りて、美瑛に向かった。私が運転し、母は助手席で景色を楽しんでいた。

「北海道って、本当に広いのね」

「うん。東京とは全然違うでしょ」

窓の外には、どこまでも続く畑が広がっていた。緑と茶色のパッチワークのような風景。空は高く、雲は低い。

「お父さんと来たかったな」

母がぽつりと言った。私は一瞬、言葉に詰まった。

「……お父さんも、きっと喜んでるよ。お母さんが元気に旅行できて」

「そうかしら」

「うん。絶対そう」

母は窓の外を見つめながら、小さく微笑んだ。

美瑛に着いたのは、午後3時頃だった。

まずホテルにチェックインし、荷物を置いてから、ラベンダー畑に向かった。ファーム富田という有名な農園だ。

駐車場から農園までは、少し歩く必要があった。母の足取りは、思ったよりもしっかりしていた。

「お母さん、大丈夫? 疲れてない?」

「大丈夫よ。早くラベンダーが見たいわ」

母は私の手を引っ張るようにして歩いた。その姿は、まるで遠足に来た子供のようだった。

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