「もう一口だけですよ。大事な餌なんですからね。はい、あーん」
「うむ。あー」
太平が竹箆を差し出し、石動の頑丈そうな顎が大きく開かれる。
「ぷっ」
「くっ」
ご隠居と伊兵が思わず吹き出した。ご隠居が「無礼討ち」を恐れた大男が、太平に向かって「あーん」をしている。
「太平さんには敵(かな)わん」
伊兵が玉網の柄に再び網をつけていく。どうやらこれの出番はないようだ。
「初めて会った時もこんなんやったな」
ご隠居が太平との出会いを懐かしく思い出していく。
「これを使ってください。はい、できたてのほやほやです」
太平が自分の竿を石動に渡す。石動の竿でも魚は釣れる。だが尺鯉を釣り上げるだけの力はない。
「うむ」
竿を手にした石動の目が大きくはし 瞠(ひら)かれた。二、三度軽く振って、「うーむ」静かに唸(うな)った。軽く加えた力が竿の全身を疾り、無駄な動きは竿の中に消え、そして「しん」と元に戻る。
これが釣り竿という物ならば、さっきまでの竿は棒っ切れにすぎない。さっきの竿が竹刀(しない)ならば、今、手にしている竿はまさしく真剣だった。
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