今思い起こせばあの件もそうであった。長年苦労してきた半島諸国の難事が収まり、隋との国交もまずは期待通りの形で始まった。我が思い描いていた政が成就した喜びを噛みしめ、それも大臣をはじめ蘇我氏の力の賜物と、蘇我と大王家との弥栄(いやさか)を叔父(馬子大臣)と二人して歌を交わしたことがあった。
さらに、我の母堅塩媛は、大王の娘の王女でないために磯城島大王の后になれぬまま妃として亡くなった。大王には最も慕われた母であったが、そのことを想うと忍びなくいつもこの胸にとげの刺さったままであった。
その痛みを癒すためそして蘇我の勢威を示す思いでもあったのであろう。亡母の遺棺を磯城島大王の檜隅坂合(ひのくまのさかあい)の陵(みささぎ)に移して合葬した。
これは我の長年の念願であった。軽(かる)の術(ちまた)(市・衢)での誄(しのびごと)の儀には諸々の臣たちもこぞって盛大に行われたものであったが、厩戸太子のみはそうではなかった。
蘇我氏の血を引いていながら移葬に関しては何も言わずに顔も見せなかった。「后」は大王の王女に限るという伝統と大王家の権威を守ろうとしたものであるかも知れぬ。
分らぬではないが、我の気持ちとしてはもどかしさを拭(ぬぐ)えぬままだ。我は思い違いをしていた。
厩戸は誠心誠意尽くしてはくれたが、常に我々の追いつけない先を見ており、また、仏教にあまりにも傾き、大王としての本来の責務である神事が疎かにはならぬかと不安もあり譲位に踏み切れなかった。
しかしその心配はいらなかった。太子が大王になれば全てがうまく進んだと思う。
太子なりの目論見の方がこの国にとって良い道が開けたであろう。今になって思えば我の優柔不断を恥じるばかりだ。
このような厩戸太子との関わりを、長い時間をかけて額田部女王は思い出しながら蘇我大臣馬子に話した。
「嶋大臣よ、やはり我は長く生き過ぎたのだと思う」