氏姓の名残は、源平藤橘が4大姓として人口に膾炙する。分かり易い引例として、平安期の氏姓は賜姓に関わり、源氏、平氏へと変換していく。

つまり、平安期は国家が安定しただけでなく、皇室の肥大化を伴い、多くの皇孫が爆発的に誕生した。天皇家の親族増加は血統断絶の不安から解放される一方、経済的問題が誘発され、高貴な血脈を受け継いだ数多の皇族の処遇が問題となった。

解消には皇宮を離脱する皇族の数を増やす必要が生じた。処方箋としては、出家等により寺社に所属するか、姓(臣籍)を得て皇室から民間に下る(降下)かが通例となった。後者は賜姓皇族、いわゆる臣籍降下と呼ばれるものである。

奈良時代から賜姓皇族の制度は行われていたが、平安期は宮廷費削減と併せて、1世皇親にまで遡求される特徴を示した。

こうして第50代桓武天皇、第52代嵯峨天皇時代から天皇の濃い血縁を持つ皇族(男女)が、源氏、平氏という由緒ある姓を賜って地方に降下していった(「平将門の乱」参照)。

下向といっても、多くは任国(下総、越前、等)の国司といった地位を得ている。下向先の任国の条件は、貴種性に負うところが大きく、天皇家、賜姓皇族が優位であったことはいうまでもない。

彼らの子孫は国衙の役人となって国家組織の末端に連なっていくか、在地豪族と婚姻関係を結び、勢力拡大を図っていく。この流れが、武士勢力の拡大と武家政権誕生に繋がった。

昔、天孫が日向に降臨して国家を成したという空想を神話に編纂し、支配の根拠にしたように、今、都の官人が鄙に降臨して、地方統治の正統性をまるでこの世の仕組みとして応用していた。

この源氏と平氏の末裔が、約4世紀後に武士政権を擁立していく。不可解な政権交代ではないし、天皇由来の日本式政治構造にも符合した。

又、寺社組織に多くの皇族が入ったことで、寺社勢力が権門構造の一極にのし上がり、政治権力に影響を与える。

神社発意は皇室の宗廟で神の末裔である天皇家を祀り、寺院は国家鎮護や先祖の冥福を祈るために王権が官寺として保護、育成しているので、天下り先ともいえる。伊勢神宮、東大寺はその代表的存在である。

 

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