序章
2016年8月10日は、初の祝日となった「山の日」である。私、「孤登の翁」(孤翁)にとっても、丸3年かけて日本百名山を完登した記念日となった。
この登山記録は随筆、『孤翁百名山に往く』(以下、前作)として刊行した。書見を賜れば幸いである。
その後は、健康志向の軽登山中心に歩いている。不思議なことに、記憶を頼りに山に登る経緯、山の事蹟、登山情報等に何気なく触れていると、これまでの実体験、感懐以外の意趣が次々と新たに湧き起こった。
それらはこれまでの感情や思考で把握した山嶺のものとは異なり、視座を一新するかの如く、創造的に誘発されてきた複雑な派生物に思えた。雑駁な中身を個別に精査すると日本の歴史、文化、社会の実像、虚像、未知の姿が錯綜しながら現れた。
山は脇侍であっても、国家・国民という本尊と深い因縁で結ばれ、離れがたい絆を演じていた。当初、「人はなぜ山に登るのか」という平素からの単純な疑問を登山の命題に掲げ、少しでも近づけたらとの念慮を嚆矢とした。
山に登るとは、頂上を極めれば、平地と高地の対照性、対比、例えば日常性と非日常性、仰視と俯瞰等によって、これまで閑却していた領域で何か新規な発見でも叶えられるのではと安易に思い込んでいた。或いは不正確でしかも味到しないまま、山岳特有の多様性を安直に把握していたことも確かである。
たまさか、百名山に登攀する幸運な機会が訪れた。普通、天上に聳える山を視界に収めれば、多くの人は自然と山に登りたいと思うだろうし、叶えなくても山との因縁とか固有の絆を無意識に感じるのではないか。
畢竟、国土の約7割を山で占めている日本に於いて、その存在は絶対的で、古来より人との結び付きは、具象的日常生活から発し、森羅万象生成流転・壊滅の理に至るまで縹渺として広範である。
自然科学的に考察すれば、普段我々の知る山岳は有形の存在であって、その本質、根本原理は自然の摂理に支配されている。しかし、人はこの摂理の一部、又は全てを自然ではなく、神(霊魂)という存在に委ねてもいる。
人が畏怖し、超越的能力を持ち、信仰する存在が神という観念である。山はそんな存在に都合よく適合し、山そのものを神と見做すか、山に神が宿るという発想が創出され、信仰された。
散歩道の碓氷峠で触れた碑には、威霊を粛然、ほのぼのと黙示する歌詞が綴られていた。
昇る陽は
浅間の雲をはらいつつ
天地霊ありあかつきの光
(杉浦翠子)