【前回記事を読む】日本の神社(神宮)の起源は天の原の神々。権力構造の変化と共に、新たな信仰、崇敬の対象が拡大した。

第1章 日本民族及び国家の成立

第2節 国家の成立

第2項 主役の構想

①藤原不比等

不比等は、知悉の「乙巳(いっし)の変」(645)で中大兄皇子(626~671、第38代天智天皇)と共謀して、天皇家に危険な存在となりつつあった蘇我氏を滅ぼした鎌足の次男とされる。

藤原氏の始祖となる鎌足は天智天皇と共に大化の改新を遂行した天下第一の功臣だが、後の持統天皇に寄り添って親を凌駕する功績を刻み、藤原一族を一等の皇室側近として永続的地位に導いたのが不比等と思われる。

以降、縷々述べる不比等の功業を分かり易く解説すると、天皇を神輿に担ぎ上げ、天皇家と不離密接で共存共栄の臣従関係を探し当てている。その結果、今日に繋がる最も枢要な、永続的天皇制を旗幟とする国家の原型を構築する偉業を為した。

幼い頃から英才教育を受け、滅亡した百済から逃れてきた政治家、知識人、僧侶等から中国の史書である後漢書や文選、仏法等を学習し、側近政治家として研鑽を積んだ。こうして、鎌足の後継者として経験を深めたことが彼の将来を決定付ける。

貴種尊重の身分制社会に於いて、皇族との付き合い、親の七光りを光背にして、将来を約束されて順風な少年時代を送った。満帆の人生に陰りが生じたのは父親の鎌足、天智天皇が相次いで亡くなった以降である。

その後、思いも寄らぬ史上最大の内乱、「壬申の乱」(672)が彼の運命を一変させる。天智の弟である大海人皇子(~686、第40代天武天皇)が近江朝廷に反乱を起こし、勝利したのである。

結果、多くの一族が近江朝廷側であったことから、不比等は一時辛酸を嘗めることになる。この経験は元服前の若き不比等に試練となり、その後の成長と政治家としての活躍に不尽の精彩を添える。

戦いに勝利し、天皇に即位した天武は唐の律令政治を布石とし、日本型の大宝律令の完成と国史編纂を目指す。唐との対等な外交関係を構築するに必要な喫緊の課題でもあった。旧弊を打破する偉大な治績を築いた天智体制が崩壊した背景には、功罪相半ばする政策への保守勢力の潜在的不満があった。

天武は二つの政策の完成を見ることなく没し、後継は皇后が持統天皇として即位(690)した。持統は父である天智及び夫である天武の意思を引き継ぎ、律令国家及び国史編纂の完成を目指すことになる。