水主が棒で岸を突くと、ゆったりと舟が堀に漂い出た。府内城は町全体を三重の堀で守る総構(そうがま)えの水城(みずじろ)で、雄之助たちは本丸と二の丸を囲む一番内側の堀を進んでいる。弁天様の祠(ほこら)に行くには小舟を使って天守台を囲む石垣を半周しなければならない。
今年の祭礼は穀雨(こくう)間近で、帯曲輪(おびぐるわ)の花持ちのよい山桜も葉だけを残し、花弁を堀に散らして季節は晩春の趣である。薄紅(うすくれない)の桜の花びらを艪(ろ)に絡ませながら十間(約十八m)ほど行くと、扇櫓(おうぎやぐら)の載る石垣の下に差し掛かる。
ここは本丸の北東側艮(うしとら)に位置し、鬼門(きもん)避(よ)けに角を削った入隅(いりすみ)となっている。
「反(そ)りの美しい石垣でござるな」
と、雄之助が住持に声を掛けると、
「石垣の角は、算木(さんぎ)積(づ)みと申し、角の線を揃えた美しい勾配(こうばい)が見事でございます」
と、応じた。舟はそこから半町(約五十m)ほど進み人質櫓(ひとじちやぐら)の下を直角に曲がると、天守台西側の真下にある祠に辿り着き、右側に顔を向けると西の丸と山里丸を結ぶ廊下橋の白い漆喰(しっくい)と檜皮葺(ひわだぶき)が目に入った。山里丸に祭礼を見守る数人の姿がある。
「舟が揺れます故、お気をつけくださいませ」
住持の声を背に受けながら頼りなく揺れる舟の縁(ふち)を掴み、祠(ほこら)の下の足場を踏んで各々舟を降りた。水主たちは水の中に棒を突っ立て、舟を石垣に押しつけながら舟の中で待っている。
祠は石を削った高さ二尺ほどのもので、腰の高さの石台に載せてあり、その内側に石を彫った弁才天らしき像が納められている。香を焚(た)き、鉦(かね)を打ち鳴らしながら読経が始まると、雄之助もやや頭を下げて法要を見守った。
一通り経が済むと、盆に盛られた数種の野菜を細かく刻んだものを、各々が一つまみ取り祠の周りに撒いたが、雄之助も促されるまま見よう見まねで自分の足もとにそれを散らした。
法要が済み、僧侶三人が帰り支度を始めたので、雄之助は祠を振り返りつつ乗ってきた舟の縁(ふち)に足を掛けた。
その途端である。
「あっ」
舟が大きく横に揺れ、雄之助は舟の縁を踏み外して、どぼんと、堀の中に落ちてしまった。
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