【前回記事を読む】世界大戦や恐慌など激動の最中、個別の学習プラン・対話を重視等、先進的な校風だった。米教育機関では初となる黒人史や女性史を扱い…
第五章 我々は、なにを学び、どこへ行くのか
江戸時代の私塾、連・講
『小さきものの近代Ⅰ』渡辺京二著
『江戸問答』田中優子・松岡正剛著
『日本問答』田中優子・松岡正剛著
『歴史の読み解き方』磯田道史著 より引用と編集
*「藩校」は、主に武士の倫理や知識を学ぶ場としてあり、立身出世にも影響があった。
*「寺子屋」は、主に読み書き算盤など、実務を教える場であった。
■「私塾」は、儒学、陽明学、国学、蘭学などの有識者が、主に私邸で自由に開講した。
■学びの中心は、「聖人になること(ひとの道をわきまえることによる人格形成)」にあり、その実践として生産、財務、隣り合う地域との困り事など、生活社会の課題が持ち込まれることもあった。
■全国から集まった門下生が5000人を越える私塾もあった。学ぶ者の身分は問わず、階層が混ざり合うところがほとんどで、時には門下生が教える側に回ったり、また、私塾同士が学び合うなど、おおもとにあった陽明学や国学も、そこで混ざり合っていった。
現在の「学校」と比べ、きわめて柔軟な活動をしていた。
■江戸末期に下総(現在の千葉県)で私塾を興した大原幽学という人物がいる。一時は地域で女性も含め100名を越える門下生をもっていた。彼は学びに討論を取り入れ、熱気を帯びたやり取りが非常に魅力的であったようだ。
また実践としては耕地整理や農業を指導した。驚くべきことには、門下生によるモデル村までつくり、江戸期において、人民平等なコミューンを構想している。
幽学は、「ひとの道」を、共創学習と協働事業の同時活動に見出そうとした。
■「連」は、連歌や俳謔の「座」をもとに、絵師や版元、音曲師がつながるようになった、いわば文化コミュニティ。「会」「社」などとも内容が重なり合う。浮世絵という絵画+印刷+出版メディア的なムーブメントは、「連」が発明したものと言われている。