【前回記事を読む】人に何かをさせる時、日本人には「皆がそうしているから」、ドイツ人には「規則だから」。イタリア人には「向こうにいい女が…」
私の国内外の旅と旅とは何かについて
ローマの拡大
カエサル(シーザー)のガリア(ケルト人の住む土地、現在の主にフランス)戦記では、アルプスを越えてフランスからブリタニア(イギリス)まで遠征している。
ローマの西限イギリスには、北方民族の侵入を防ぐため、ハドリアヌス防壁・アントニウス防壁があった。ここがイギリスでの西のローマの境界であった。
ドイツのリーメス同様、中国の北方騎馬遊牧民の侵入を防ぐ中国の万里の長城のようなものは、イギリスにもあったのである(北方遊牧民・騎馬民族の侵入に農耕民は手を焼き・悩まされ、防塁等の対策を取っていた)。
イギリスには、大陸からケルト人が移動してきた(ストーンヘンジの時代の人たちはあまりよく知られていないが、ケルト人侵入以前の人たちである。
ストーンヘンジに似た巨石建造物は、スコットランドにもあるし、ヨーロッパ各地にある。地中海のマルタでも見たような気がする。
この時代の人は、最近の遺伝子解析によれば、現在のトルコ・エーゲ海の地域から渡ってきた人々らしい)。
ケルト人は文字を持っていなくて、グレートブリテン島の丘に部族ごとに住んでいたようである。そこへ、ローマ人が文字と国家統治のシステムを持ち込み、ようやく国の体をなしたといわれる。
ローマは、後に国教化したキリスト教(ローマでは、キリスト教は、迫害→公認→国教化、の歴史を持つ)を、イギリスにもたらした。もちろんローマ・カトリックである。
その後アングロ・サクソン人の侵入により、ケルト人は、ローマ・カトリックの信仰を持ったまま、ウェールズ・スコットランド・アイルランドのイングランドの周辺部に追いやられた(そのため彼らは、ケルト系のゲール語を持っている)。
イングランドでは、ヘンリー八世の離婚問題を契機として、離婚を認めないローマ・カトリックから離れイギリス国教会が設立された(設立時はまだカトリック教会不要のプロテスタントの考えはなかったようで、単に離婚を認めないローマ・カトリックの支配から逃れたいだけだったようである)。
これが無血革命・名誉革命の時プロテスタントに確定したが、ケルト人の地域は、そのままローマ・カトリックが主流であった。これがアイルランド紛争の原因になったし、アイルランドのジャガイモ飢饉・ポテイトウ・ファミン(ジャガイモ自体は大航海時代アメリカからもたらされたものである。