【前回記事を読む】「梅栗植えてハワイに行こう」と掲げられた町のスローガン。当時の日本人にとってハワイとは、まるで別世界の、憧れの旅行地だった?

私の国内外の旅と旅とは何かについて

海外旅行を加速させた円高

(ハワイといえば、真珠湾奇襲攻撃の時の真珠湾とはどんな所だったのだろうかと、オアフ島の空港から観光客でにぎわうホノルル・ダイヤモンドヘッドと反対側の、パールハーバーまで一人で歩いて行った事がある(アメリカは車社会で、ハワイでもそこまで歩いていく人等見かけなかったが)。真珠湾奇襲攻撃の映画を見た後、撃沈され水没した戦艦アリゾナの上の記念館まで、ボートで行ってみた事がある)。

農協が主催する団体パック旅行は、「農協さん」と揶揄された事もあった。

1980年頃急に日本人観光客がニューヨークにどっと押し寄せ、アメリカ人に驚かれた、という話も聞いた。

毛沢東時代の人民服を着ていた中国の人々が、鄧小平の資本主義へのかじ切りにより、だんだん中国の沿岸地域が豊かになり、大挙して団体旅行で日本に押し寄せてきた異様な光景に我々日本人が驚いたが、当時のアメリカ人の日本人に対する反応も同じようなものであったのであろう(当然であるが、言葉が分からない、旅慣れない、そして風俗・習慣・行動様式の全く違う異空間では、個人旅行はなかなか難しい)。

次第に海外旅行に慣れてくると、我々のようなその他大勢の名もなき一般庶民でも、個人旅行出来、個人で・一人で何回もいや何十回も外国に行く事が、特段珍しい事ではなく、自分のような浮遊層(決して富裕層ではないが)でも、頻繁に海外個人旅行する事が、普通になってきた。

個人旅行も今日当たり前のように、普通に思われているが、これは前述のように、数々の偶然・奇跡の上に成り立っている、日本史上稀な事である。