第一章 青天霹靂 あと377日
二〇一六年
二月二日(火)晴
夕食を終えた歯磨きの時に事は起きた……
「吐き出そうとしても、出来ないのよ……」と、うがいをしていた母が言った。
前にも、すすいだ水をなかなか口から出そうとしない事はあった。でも今日は、あろうことか吐き出すべき水を飲んでしまったのだ。もっと正確に言えば、口の中にまだ食べ物が残っているのに歯ブラシをくわえてしまいモグモグしていたので、一度吐き出すよう促したにも拘らず、それをゴクンと飲んでしまったのだ。ショックだった。
よく聞いてみると、どうやらうがいをしているうちに、吐き出すべきなのか飲みこむべきなのかが分からなくなってしまうのだそうだ。それが、二度目三度目のうがいとなれば尚更のようで、次第に焦り、つい飲みこんでしまうのだ。
“認識の誤動作”という症状である。そう言えば、「ブクブクしなさい。ペッてしなさい……」と、促されながら歯磨きをしている老齢患者をよく見かける。母もそういうふうになってきたという事か……。
どうか、これ以上、症状が進まないでほしい。いつまでだって生きていてくれと願うのは、子としての身勝手に過ぎるだろうか。
二月四日(木)
「三時のおやつに」と、現場で施主にもらった桜餅をポケットに入れ、母のために持ってきた……。
「お前も口に入れてごらん……」と、モグモグしながら母は言う。
甘いものが苦手な私は、小さくちぎった一かけらを口へ放り込む。
「うまいか……、お前が食べるの見てると幸せだー」と、幼子を見つめるように、五十路(いそじ)を過ぎた息子に目を細める母が愛おしい。
思えば幼い頃、母は勤務先の病院で出たおやつをそっと持ち帰り、よく私たちに食べさせてくれたものだ……。
なぜだか、母も今、同じ回想をめぐらせているのではないだろうか……、そう思った時、“コンコン”と扉がなった。
「このあいだやったCT検査の報告が先生からあります……」
「先日のCT検査の結果ですが、腹部リンパ腺の腫れが前回の検査より小さくなっているのが分かります。奈良井総合病院からの報告では“リンパ腫”という診断になっているわけですが、通常、ガンであれば何も治療をしないで腫れが小さくなることはありませんので、もしかしたら単なる炎症だったのかも知れないという可能性を感じてしまうのですが……、とにかく妙としか言いようがありません」
「ガンが治ってきているという事ですか……」