【前回の記事を読む】「生まれてこなければよかった」——平成9年、3分の1の小中学生がそう答えたという。何が子どもたちにそう思わせるのか

一 小児科医として歩き出す 病気の子どもの世界へ

春の山菜採り ―自然失った現代人―

雨上がりの春の山麓 (さんろく)の朝は、地面がしっとりと濡(ぬ)れ、雑草の葉の上には大きな空色の水玉が乗っかっている。山にはガスがかかり、その中からメジロやモズの鳴き声が騒がしいほどに聞こえてくる。

「もう10日も前にワラビを採って食べた」とふるさとの姉たちから電話があった。向こうは南斜面の日だまりだからいつも早いし、育ちがいい。こちらは大麻山の北斜面だ。しかしいくら遅いといっても、ワラビの一本や二本、頭くらいは出しているはずだ。と思いつつ、例年生える場所に行って目を凝らして斜面を見る。

見あたらない。土が持ち上がった様子もない。残念。もう少し暖かくならないと、と思いつつ、犬を連れて山を下る。桃が鮮やかに咲いている。子どものころから山が好きだった。

春休みには村で一番高い山にみんなで登る。お弁当を持って山道をわいわい登る。ふーふー言いながら道の横にある番号の付いたお地蔵さんを数えながら登る。頂上に登れば瀬戸内海が見え遥(はる)か屋島が、振り返ると吉野川、徳島の街が見え、遠い景色に夢をはせた。

日だまりには可憐(かれん)な山ツツジが朱色やピンクの花をつけ、馬酔木(あしび)が白いかんざしをたわわに垂らし、遠い山には薄桃色の山桜がいくつも浮かび上がっている。お弁当のあと木々の間を巡り、隠れたり、寝ころんだり、大声で叫んだり……。

帰りにはワラビやフキなどを採り、持って帰ると母が大好物の山菜ずしを作ってくれる。里イモや高野豆腐もいっぱい入った五目ずしだ。それは母の味であり母の思いであり、私の母のイメージでもある。

その母も、もういない。同じように山で育った妻が今は母と入れ替わった。結婚以来二十数年、私の持って帰る山の幸をふんだんに入れた好みのすしを作り続けてくれている。

子どものころの自然の中での遊びが意外と大人の生き方の原点にある。大人になっても自然の中で戯れる人たちの目は子ども時代そのままである。

今の子どもたちにはそんな機会が本当に少ないと同時に家庭の絆(きずな)も希薄になってしまった。草木の一本一本に新鮮さを感じ、息を殺して池の底に潜むだろうフナの銀の鱗(うろこ)の輝きを思い、小鳥のさえずりに耳を傾け雲の動きに目を凝らす。

そんな生活を今の大人も忘れている。現代人は生き急いでいるのかも。せめて消費税 が上がった分、今度の休みに家族でお弁当を持って安上がりの自然の中で戯れることをおすすめする。