それからは暗黒の迷路が続いた。すでに時間の感覚がない。先に進むほど湿度が高く、今が晩冬とは思えないくらいじっとりとした汗が出る。それだけでも十分不快なのに、またこの臭気の中、ここの住民はどうやって暮らしているのだろう。
たぶん、ここに四季なんか存在しない。そんな気持ちがよぎるほど、頭の中は疑問だらけだった。不規則な坂道や階段を乗り越え、ようやく到達したのはネオンが光源となった路地裏。それらいかがわしい明かりが軒を連ねる闇で、母さんも同じ思いをしているかと盗み見た。
父の葬儀でも矢面に立たされた時も、この地を踏むと決めた時でさえ弱音を吐かなかった母。そして今でも精一杯の笑みを向け、おれを励まそうとしていた。
――あんたみたいなタイプ。ここじゃあ〈悪〉ね。
それがかえって胸騒ぎを誘い、即席の微笑を返すしかなかった。
三 歯車
その日は朝から霧雨が降っていた。二段ベッドの上段で手鏡を覗き込んでいたあたしは、立ちのぼる湿気混じりの臭気に辟易していた。
ビンさんのおかげで腫れこそないものの昨夜の悪夢を思い出すには十分で、今夜の仕事は控えるべきかと舌先で唇の瘡蓋(かさぶた)を突いた。おまけにアスピリンもすっかり子供騙しで、あたしを楽園に導いてくれるものは何一つなかった。
ダン、ダン、ダン。
まさに日課が始まった。これは上階の裁断機の音だ。住居と工場の垣根がないコミュニティーにおいて、騒音に関する諍いは絶えない。ただ、運が悪いのだ。住民たちはそうやって折り合いをつけ、諦めに似た境地の中で別の逃げ道を探す。
「うるさい」
躾の悪い片足が天を蹴った。そうしたところで何かが変わるわけでもなく、床に下りて放置された煙草に火をつけた。
ベッドの下段は蛻(もぬけ)の殻だった。水を含みすぎた半平に似た布団が、恨めしくあたしを見ている。主は今日も戻らない。そんな泡沫(うたかた)のひと時に嬉々として浸りながら、ちりちりと燻ぶる草の音に耳を傾けた。
しかし、寸分違わぬ絶望というタイミングを扉の向こうで謀っていたのだろう。そんな才能を持った〈女〉が帰ってきた。
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