蘇我一族の強大化を恐れていた中大兄皇子が、中臣鎌足と組んで起こした蘇我一族壊滅事変であった。
しかし、この変は第34代舒明天皇(593~641)の皇子中大兄が直接首謀した血なまぐさい結果を招き、天皇家にとっては「負の遺産」を背負う禍根を残した。
中大兄皇子と鎌足が起こした入鹿誅殺の場面は、後世鎌足を祀る談山神社に残る絵巻に臨場感たっぷりに絵に描かれて伝わり、史実と洗脳されてきた。
虚飾でなければ、飛鳥期以前には皇宮内でもこうした刃傷沙汰が頻繁に起きていた反証ともいえる。
乙巳の変を朝廷内の権力闘争、内紛と捉えても、天皇直系の皇子が画策実行した事件は異例であり、権威を汚す汚点だったに違いない。
それを打ち消すかのように実質的権力を握った中大兄と鎌足は、革新的政策として天皇制及び公地公民制を主体とする大化の改新を断行した。
しかし、外交的には白村江の戦い(663)に大敗し、政治危機を招いた。
中大兄は強権を振るう支配者であったが、第37代斉明天皇没(661)後も即位の式を挙げずに、天皇の政務を行う称制を採用し、神妙な立場を示した。最高権力を実質的に保持、執行しつつ、負の遺産に十分配意した対応に映る。
こうした背後に血判の誓いを結んだ腹心の鎌足がいた。
天皇家が最も隠匿にしたい謀議の加担者が中臣氏(藤原氏)で、極秘遵守義務を二家で共有する運命に拘束されつつ、他の氏族では築き得ない託生で繋がっていた。
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